宮城県仙台市/平成25年3月現在
震災直後から、地域の方々への支援を開始した社会福祉法人宮城厚生福祉会が運営する高齢者福祉施設「宮城野の里」。全国からの支援を受け入れながら、町内会や民生委員など地域の要望を受けて福祉避難所としての役割を担いました。
当時を振り返って…
高齢者福祉施設「宮城野の里」にはケアハウス「宮城野の里」、短期入所生活介護施設福田町、福田町デイサービスセンターⅠ・Ⅱ、居宅介護支援「宮城野の里」、ヘルパーステーション「宮城野の里」と福田町地域包括支援センターがあります。
震災当時、宮城野の里では震度6強の揺れとなり、その後も幾度となく余震が発生しました。職員は施設内の家具等が倒れないよう、必死に押さえていました。外では施設の送迎車がひっくり返りそうなほどの揺れでした。
「揺れが落ち着いてから、携帯電話に津波警報が入りました。まさかここまでは来ないだろうと話していましたが、午後4時近くにがれきを含んだ真っ黒な津波の水が農業用水を遡ってここまできたのです」と当時の宮城野の里の施設長、小野ともみさんは話します。
施設では、電気、水道、ガスが使えなくなったため、ブロックを組んでかまどをつくり、当日の晩から炊き出しを行いました。燃やす物が無かったため、古紙を丸めたり、生垣を抜いたりして薪にしました。1日3回、温かい食事を3日分の備蓄食料を使って利用者に提供しました。
当日デイやショートの利用者の中には家屋が流されたり、地震被害で帰るに帰れなくなった方々がおり、避難所にいられなくなった認知症高齢者の方などの相談も寄せられました。建物の安全確認を行うと、大きな被害がなかったため、施設の利用者だけでなく地域の方も含めて、施設内に受け入れることにしました。また、支援物資についても、地域の要援護者にも提供するなど、宮城野の里を拠点としてできることを実施しました。
地域の要援護者はケアハウスの食堂で受け入れることにしました。そのため、職員は、3月11 日から福祉避難所の開設となる3月21 日までずっと施設に宿泊して支援を継続することになりました。勤務体制としては、午前3時~午前11 時、午前11 時~午後7時、そして午後7時~午前3時までの3交代勤務を組み、子どものいる職員は子どもを連れて寝泊まりをしました。「定員以上の高齢者がいたため、私自身も1カ月ほどはここで寝泊まりをした。子どもをおんぶをしての介護というような状況で当時は本当にみんなよく頑張ったとしか言いようがない」と小野さんは当時を振り返ります。
宮城野の里 当時の施設長小野ともみさん
多くの支援に力づけられる
しかし、13日の夜にもなると燃料も食料も底を尽きかけてきました。そんな折、山形県の特別養護老人ホームとかみ共生苑の施設長が、ワゴン車いっぱいの支援物資を運んできました。とかみ共生苑施設長の「大丈夫。支援に来るからね」という言葉に励まされた、
と小野さんは言います。
この物資支援は偶然ではなく、関係機関の広域連携によるものでした。宮城野の里からは全く連絡がとれない状態でしたが、とかみ共生苑が発信した情報を受けて、21 世紀老人福祉の向上をめざす施設連絡会が新潟県の特別養護老人ホームの穂波の里に支援物資を集めて、それを車で福島県や宮城県の施設に送るルートを開発していたのです。また、社会福祉法人虹の会からもワゴン車で物資が届きました。これらの支援を通じて、小野さんは「日頃からのつながりの大切さを改めて感じた」と話します。
地域の要援護者に対しての取組み
仙台市内では老人福祉施設協議会などを通じて、全ての特別養護老人ホーム(以下、特養)が地元自治体との福祉避難所の協定を結んでいました。宮城野の里を運営する宮城厚生福祉会は、仙台市で特養を運営していないので協定こそありませんでしたが、発災の翌日から地域の要援護者の支援活動を始めました。具体的には、地域包括支援センターに寄せられる多くの情報をもとに、避難所で生活している要介護高齢者、がん末期の方、認知症高齢者をグループホームや特養に受け入れてもらえるよう、調整を行いました。また、必要であれば温かい食べ物を提供したり、おむつの配布、避難所への看護師派遣も行いました。
地域の要望を受けて、福祉避難所を開設
福祉避難所は、町内会長や民生委員から認知症高齢者や医療依存度の高い高齢者の避難場所の確保を要請されたのがきっかけで、開設につながりました。実際には、電話が通じるようになってからファックスで届いた3月11 日付の厚生労働省通知を受けて、宮城県および仙台市の介護保険指導室に電話を入れ、開設の許可をとりました。3月19 日から準備を始めて、実際に高齢者が避難してきたのは21日でした。福祉避難所には自宅流出・倒壊などが理由で、介護保険の緊急ショート扱いとして入居した方が30 名ほどおり、1週間から2か月入所しました。
福祉避難所の運営は、居宅介護支援事業所の主任ケアマネジャーが中心となって行いました。福祉避難所の運営では工夫した点も多くありました。たとえば、家を無くされた方のためには、少しでも自宅にいるような雰囲気を出すため、わざと近くに洗濯物を干したり、自宅を流されて夫婦で避難されてきた方の結婚記念日をお祝いするなどです。小野さんは「支援できなかったことも多くあるが、その時々の状況を踏まえできる限りのことを支援してきた」と話します。
支援者の受入れも事前の準備が必要
福祉避難所へは全国の職員の応援がありました。応援職員は福祉避難所での支援だけでなく、派遣されてきた職員の人数調整や引き継ぎ等も行いました。ただ、応援職員には支援に入る期間が短い(1泊2日など)方が多く、受入れ側が福祉避難所での業務内容等を何度も説明しなければならないといった負担もありました。
「当時は、宮城野の里まで行くのに3日から4日かかるという状況だったため、宮城野の里で支援をする期間が多くもてなかった。仕方の無いことだったが、応援職員を受け入れる事前の準備を施設として行うことが必要だった」といいます。福祉避難所の運営の中心には、沖縄から3か月ほど長期休暇を取って応援に来てくれたボランテイアがあたり、長期のボランティアの重要性も実感しました。
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