(社福)南相馬福祉会 特別養護老人ホーム福寿園
受入れ先を自ら探し、要介護高齢者が横浜市まで避難
掲載日:2017年12月22日
ブックレット番号:2 事例番号:23
福島県南相馬市/平成25年3月現在

 

福島県内の福祉施設は全壊4施設、一部損壊311施設で、避難指示等区域内の利用者等429人は県内外の149か所での避難生活を強いられています(平成24 年3月現在)。また、原発事故の影響により県外に避難した県民は6万人を超えており、人口の減少と合わせて若年層の県外流出が生じていることから、運営を続けたり再開している施設も職員の確保に極めて苦慮している状況があります。

要介護高齢者である利用者229人とともに福島県南相馬市から遠く横浜市まで避難した法人があります。社会福祉法人南相馬福祉会です。

 

当日、法人全体で263人が施設に入所していた

社会福祉法人南相馬福祉会は、3つの特別養護老人ホーム「万葉園」「福寿園」「梅の香」をはじめ、ケアハウス、グループホーム、デイサービス、居宅介護支援センター、ヘルパーステーション、地域包括支援センターなどを運営しています。3つの特別養護老人ホームは、「万葉園」が福島第一原発から32km の地点に位置しており「福寿園」が20 ~ 30km圏内にあり、20km 圏内にある「梅の香」は旧警戒区域(現・避難等指示解除準備区域)となったため休止しています(地図参照)。

平成23 年3月11 日(金)午後2時46 分、地震が発生したとき、これら3つの施設合わせて263人の利用者が施設にいました。

 

福寿園では、利用者が中庭に避難しましたが、電話も不通となっている中、「津波が来る」という情報が入ってきたため、高いところに避難することにし、ケアハウスの利用者の一部は隣接する病院の2階、3階に避難しました。南相馬福祉会常務理事で福寿園施設長の大内敏文さんは、「結局、福寿園までは津波は届かなかったが、ここからわずか1.5km海岸寄りにあった老人保健施設は津波にのまれ、外に避難していた30 人の方々が残念ながら亡くなった。今思えば、外に出て隣接する病院に避難したことは得策ではなかったかもしれない」とふり返ります。

 

福寿園のデイサービスでは、地震後、津波が来ない地区の利用者をすぐに送り出しました。また、家族と連絡がつかない方、沿岸の方は、緊急ショートステイで対応し、デイサービスセンター職員は泊まりながら家族と連絡を取り続けました。職員の中には海岸寄りに自宅があり、「子どもが家にいる」と迎えに行き、津波が来る前にかろうじて娘を連れ戻せた職員もいました。

また、福島第一原発から20km 圏内にあった「梅の香」は、利用者を連れて神社、役場、文化館と避難し、翌日にグループホーム小高の利用者は一旦福寿園、梅の香の利用者は万葉園へ避難してきました。大内さんは「震災前から災害対策マニュアルはあったが、これまでの訓練はとにかく外に逃げて終わりだった。元の施設に戻れなくなった場合を想定した訓練も必要ということを痛切に感じた」と話します。

 

 

 

自ら受入れ先を探し、遠く横浜市まで避難

震災の翌日、原発の水素爆発があったものの、施設利用者の避難について行政から何も指示がないまま数日が経ち、物流も途絶え、病院も撤退していく状況下で自衛隊員から「避難はどうするのですか?」と言われるような状態となりました。市民が市のバスで避難しているのに自分たちだけが取り残されている事態となりました。

この時点で支援いただいた物資や米、経管栄養剤の備蓄もあと数日分しかなく、調理を外部に委託していたため一時調理員も来なくなり、その間、施設長、事務長、ケアマネジャーが調理場に入って食事を作りました。そして食事を3食から2食に減らしてしのぐという危機的な状況に陥りました。そこで、施設内の実情を自らデジカメで動画を撮り「NHKニュースウォッチ9」にテレビ電話出演し、苦境を訴えました。

するとニュースで報道された3月16日に横浜市にある医療法人社団愛優会「老健リハビリよこはま」から「利用者を全員受け入れる」との申し出をいただきました。当時、家族に引き取られた方を除き、229人が施設に取り残されていましたが、いくつかの申し出の中でも全員をまとめて受け入れてくれるところがその施設しかなかったので、その申し出を受けて3月19 日に南相馬を出発することになりました。

 

横浜から大型バス6台を手配してもらいましたが、「30km圏内には入って来られない」とのことだったので、福寿園84人を32km地点の万葉園まで自分たちで朝5時から移動させ、さらに万葉園と梅の香の利用者を加えて229人と職員42人、職員の家族10人が大型バスに乗り込み、南相馬を後にしました。

午前9時に南相馬を出発し、途中、2人の利用者の体調が急変し、サービスエリアから救急搬送しました。横浜に着いたのは午後7時。約10時間、座位もとれない要介護度の高い高齢者を無理にバスに座らせての移動です。褥そうもひどい状態で横浜に到着しました。大内さんと本部事務長で福寿園副施設長だった高玉智子さんは当時をふり返り、「移動中に誰も亡くならなかったのは、運がよかったとしかいえない過酷な移動だった」と話します。

 

そして、「横浜に着きさえすれば…」という思いで到着しましたが、受入れ先の老人保健施設は定員130人の施設で、急な受入れを申し出てくれた状況にあって、受入れ体制が整っている訳ではありません。ベッドもなく、廊下や食堂で雑魚寝の状態でした。先方の職員に利用者の情報を伝えながら、職員も施設の空き部屋に雑魚寝して過ごして利用者の支援にあたりました。

 

右:大内敏文さん(南相馬福祉会常務理事)

左:高玉智子さん(南相馬福祉会本部事務長)

 

横浜からさらに二次避難先へ利用者を分散

その後、3月25 日までに利用者の二次避難先を関東圏で39 か所、大阪や山形も含めて探していただきました。特別養護老人ホームには空きがなかなかなく、老人保健施設や宿泊デイ、有料老人ホーム、宅老所などのあらゆる受入れ先を探していただきました。

山形県では、一旦は有料老人ホームに受け入れてもらいましたが、山形県から福島県を通じて当法人に申し入れがあり、施設利用者70人を山形県内の20 か所の特別養護老人ホームへ2~3人ずつ受け入れてもらうことができました。

 

大内さんは「本来ならば同一サービス種別へ避難することが望ましかったが、あのときはそんなことが言える状況ではなかった。後から減免制度があったが、特別養護老人ホーム以外に避難していただいた方のところへ高額な請求書が来たりもした」と話します。また、「それぞれの受入れ先には、その方のケース記録のファイルをお渡しして支援を引き継いだが、こういったことも想定してひと目でその方の支援のポイントがわかる記録を備えておくことも必要だと思う」と話します。

一方、利用者と行動をともにした職員たち自身も被災者であり、家が全壊した者、身内が行方不明な者もいました。「職員を家族のもとに帰してあげたい」と考え、3月25 日にようやく職員が一旦、南相馬へ帰ることができました。

法人としては「施設を再開したい」「職員の雇用も継続したい」と考えました。そのため、職員は自宅待機とし、退職希望者以外は給与の8割を支給して9月末まで身分保障を続けました。そして、法人機能を維持するべく、福島市内にアパートを借りてそこで事務を執り行ってきました。

 

取材先
名称
(社福)南相馬福祉会 特別養護老人ホーム福寿園
概要
(社福)南相馬福祉会
http://minamisomafukushikai.or.jp/
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