がんの子どもを守る会 野村 耕太郎さん
妹を小児がんで亡くしたきょうだいとして思うこと
掲載日:2017年11月29日
2015年3月号 くらし今ひと

 

あらまし

  • 「がんの子どもを守る会」の活動に参加しながら、妹を亡くしたきょうだいとしての自分と、小児科医としての自分に向き合い続ける野村耕太郎さんにお話を伺いました。

 

妹の死をきっかけに、医療者を目指す

私が小学1年の時に、妹(当時1歳)が急性巨核芽球性白血病になり、2年後の夏に亡くなりました。妹が入院している間は両親と会う時間が少なくなり、祖母が私の世話をしてくれました。学校であったいろいろなことを両親に話したかったけれど、妹の病気のことは聞かされていたので、幼いながらに我慢しなければ…と思っていました。子どもの自分は妹と面会することもできなかったので、思い出と言えば病気になる前に近所の畑などで一緒に遊んだことしかありません。それでもやはり、妹が亡くなって喪失感を感じました。それと同時に両親が家にいる、普通の生活に戻りました。帰ってきた母の背中が小さく見えたことをよく覚えています。2年間で自分の体は成長していて、それ程母と会う時間が無かったのだと後から気付きました。

それからは、妹のことを忘れたわけではないですが、普通の生活を送っていました。高校生の時に、進路について考えるためにこれまでの人生を振り返るような機会があり、そこでやはり自分の中で妹のことがひっかかっていることに気付きました。その時に医療者になろうと決めました。

 

「きょうだいとしての自分」に向き合う

医学生の時に、「がんの子どもを守る会」が、小児がんの子のきょうだいにスポットをあてて、交流会や富士山に登るキャンプなどの活動を行っていることを知り、参加しました。その時は、小児がんのことを知りたいという気持ちと、その家族がどんなことを思っているのかを知りたいという気持ちから参加しました。参加し始めてから今年で7年目になります。

振り返ってみると、交流会や富士山キャンプは自分の変化に気付かされる場だと思います。キャンプにはこれまで6回参加しましたが、1回目と6回目は参加者として、それ以外は参加者をフォローするボランティアとして参加しました。あくまでも医師としての参加ではありません。しかし自分自身の肩書きは、医学生から、研修医、小児科の医師と変化しているので、毎回参加して感じることが違います。役に立とうと気負ってしまっていたこともありましたが、昨年久しぶりに参加者という立場で参加して、改めてきょうだいとしての自分や仲間たちの目線に気付かされました。きょうだいとしての自分を大切にすることで、医療者としての自分にも深みが増すのだと感じました。

また、医療者としての自分にスポットがあたってしまうことが、これから将来の道を選んでいくきょうだいの仲間たちに良くないプレッシャーを与えたくないと思っています。「がんの子どもを守る会」の方々も、医療者としての私ではなく、自分らしく生きる私を応援してくれているのだと思います。

 

まずはスキルを磨いていく

私は現在、国立がん研究センター中央病院の小児腫瘍科に勤務しています。いつか、医療者としてきょうだい支援の場づくりにも携われたらという思いは持っています。そのためにもまずは医療者としてスキルを磨くことが大事だと思っています。小児科医として、家族支援ももちろん大事ですが、家族が何よりも求めているのは病気を治すことだということを念頭におきながら、これからも仕事に取り組んでいきたいと思っています。

 

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  • がんの子どもを守る会
    1968年設立。小児がんで子どもを亡くした親によって設立された患者家族会。患者家族同士のピアサポートをはじめ、専門のソーシャルワーカーの相談など、小児がんによる長期入院に伴う家族の二重生活、経済的負担、進学・進級、就労、自立といった小児がんに関わる課題に対し、心理社会的支援も含む総合的なサポートを行っています。
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