福島県社協老人福祉施設協議会・リリー園・いいたてホーム・NPO法人Jin
「復興×福祉」―地域の想いをのせて~福島の避難指示解除と事業所再開の今~
掲載日:2018年3月26日
2017年12月 社会福祉NOW

 

 

あらまし

  • 災害時に休止した福祉施設・事業所の再開は、法人にとって大きなエネルギーを要するものです。地域がもう一度、輝きを取り戻すことをめざす「復興」というステージ。今号では、避難指示の解除を迎える区域が少しずつ増えている福島で福祉施設・事業所が地域の想いをのせて困難に立ち向かう姿から、福祉のありようを改めて見つめ直します。
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―災害が発生し、利用者の命は守ることはできたものの、施設に戻ることができず、全員、別の場所へ避難を余儀なくされる―

近年は豪雨災害でも、こういったケースが見られるようになってきました。そのような事態に陥った際、利用者を守りきり、そして、再開を果たすにはどのような困難があるのでしょうか。平成23年3月の東日本大震災では、原発事故も伴い、この厳しい事態を経験した福祉施設・事業所が数多くあります。

 

福島県内では、東日本大震災から6年半を超える歳月を経て、避難指示の解除を迎える区域が少しずつ増えています。原発から20km圏内にあって、避難を強いられた特養は6つ。いずれも利用者とともに過酷な移動と避難を経験するとともに、利用者を他の施設に託すことで「施設」としての形を失ってしまいました。

 

これら6つの中で、唯一、楢葉町の特養「リリー園」が元の所在地で再開を果たしています。

 

 

 

 

「またあの場所で」―避難指示を受けた特養の事業再開までの道のり_特別養護老人ホーム リリー園

 

 

リリー園施設長 永山初弥さん

 

社会福祉法人広葉会が運営する特養「リリー園」では、楢葉町の全町避難指示を受け、いわき市へ避難することになりました。

 

渋滞による長時間の移動に加え、町のバスは寝たきりの方をはじめ高齢者の避難には適さず、利用者の体には大変な負担がかかりました。

 

いわき市内の中学校で過ごした一次避難先での生活について、施設長の永山初弥さんは、「高齢者にとって劣悪な環境だった」と言います。利用者は体育館の硬く冷たい床の上で過ごさなければならず、また、食形態に配慮が必要な方に避難所で出されるおにぎりをそのまま提供するわけにはいきません。職員は自宅から鍋などを持ち寄り、必要な方にはおにぎりをおかゆにするなどして提供しました。

 

5日間の一次避難を経て、二次避難先はいわき市の隣の石川郡にある医療法人の施設に決まりました。一次避難の際に駆けつけてくれた29人の職員は14人まで減っていました。職員も被災者の一人であり、それぞれの生活や家族があります。それでも避難所に残って動いてくれる職員たちに、永山さんは「使命感を持って利用者のそばに居続けてくれた職員がいてくれて本当にありがたかった」と感謝の想いを語ります。リリー園が地域に果たす役割は何か―。永山さんは、「避難所で、地域の高齢者やその家族の『故郷で暮らしたい』という想いが手に取るようにわかった」と言います。そしてその想いを叶えるために、リリー園をいつかまた同じ場所で再開したいという想いを持ち続けていました。

 

楢葉町は平成27年9月5日に避難解除を迎えました。そして平成28年3月30日、5年間の休業を経て、リリー園は元の場所で再開を果たしました。震災前にいた約60人の職員は16人にまで減ったものの、震災後採用した3人を加え、元からの利用者8名を含む21名を受け入れました。

 

平成29年10月末現在、職員は31人になりました。しかし、まだ介護職員は足りていません。人材不足から思うように利用者の受け入れができない今、経営面においても厳しい状況にあります。それでも、地域に根ざした社会福祉法人として、リリー園があるから安心して楢葉町で暮らせるという選択肢を増やすために、職員は日々奮闘しています。永山さんは「この地域でこの施設が果たす役割は大きい。地域の方が地域で安心して暮らせるようにがんばっていきたい」と話します。

 

 

地域のニーズに応える事業所だから必要な再開と人材確保への支援_福島県社協 老人福祉施設協議会

福島県社協老施協事務局長 高木健さん

 

避難を経験した6つの特養のうち2つが避難先で「仮設特養」を再開させています。浪江町にあった「オンフール双葉」と双葉町にあった「せんだん」は、平成28年にいわき市内に用地を確保して再開しました。一方、大熊町にあった「サンライト大熊」と富岡町にあった「舘山荘」は、それぞれ避難先で再開をめざしましたが、実現できませんでした。さらに、元の所在地には戻れた南相馬市小高地区の「梅の香」は、人員を確保できず、再開できない状況にあります。

 

福島県社協老人福祉施設協議会事務局長の高木健さんは、「再開できた施設も人材の確保が極めて厳しい状況にある。どの施設も職員をつなぎとめる努力をしてきたが、長期化して先が見えてこなければ、それも難しくなる。特に公設民営の施設の場合、自治体の復興計画が定まらないと、法人として動きが取れない」と、指摘します。一方、特養を再開できていない法人でも、措置施設である養護老人ホームは早期に仮設施設を自治体が確保して再開できています。民間の利用者との契約施設である特養は、利用者の生命を守るために利用者を手放すと経営が立ちゆかず、再開に向けた努力は法人にとって大きなエネルギーを要するものになります。

 

高木さんは、県域にある老施協事務局として変化する被災施設の状況を把握し続けました。「3~4か月ごとに訪問や電話、あるいは全施設に集まってもらい情報を共有してもらっている。訪問は大事。とにかく行ってみないと。現場を見て一緒に考えないとわからないことがある」と話します。事業所の早期再開は、その法人のためだけでなく、増大する要配慮者のニーズに対応できる供給力を確保するとともに、被災した要配慮者の暮らしの先行きの選択肢を増やすことにつながります。

 

さらに、厳しい人材確保を乗り越えていく視点について、高木さんは次のように指摘します。「『これまでやってきたケア』というブランディングはもともとの職員をつなぎとめるには有効だが、新しい人を巻き込むには、さらに、『もう一度、あなたと一緒につくり直しましょう』と言うことも必要。『困った。困った』と訴えるだけでは仕方がない。『自分たちの魅力』をきちんと伝えていくことが必要になるだろう」。

 

 

全村避難の中、事業継続の決断をした特養は_特別養護老人ホーム いいたてホーム

 

いいたてホーム施設長 三瓶政美さん

 

県内6つの特養が避難する一方、村にとどまることを選び、6年半の間事業を続けてきた特養があります。社会福祉法人いいたて福祉会が運営する「いいたてホーム」です。

 

震災から1か月後の4月22日、飯舘村が計画的避難区域に指定され、いいたてホームも利用者・職員の252人が避難勧告を受けました。

 

そこで施設長の三瓶政美さんと職員が選んだのは、「避難しない」という選択肢でした。利用者は避難せずホームにとどまり、職員は避難先から通勤するというものです。利用者や職員の被ばく量を推計しても年間20mSvを超える可能性はなく、利用者は長距離移動や環境の変化によるリスクを避けて、よく知っている職員から継続してケアを受けることができます。5月17日に国から継続操業が認められました。

 

しかし、平成23年3月末に20人、さらに6月に20人の職員が退職しました。三瓶さんは、「140人いた職員は、2年後の平成25年には77名になっていた。職員は、利用者か家族か、一人ひとりさまざまな葛藤があっただろう。職員本人はここに残りたくても、家族の反対があり残ることができなかった職員もいた」と言います。

 

残ることを決めた職員は、福島市や南相馬市の仮設住宅から片道30キロほどの距離を、雨の日も風の日も、積雪の中の凍結路も乗り越えて通勤してきました。そして「ケアの質は落とさない」を合言葉に、利用者の笑顔を引き出す「いいたてホームらしいケア」を続けてきました。三瓶さんは、「つらい状況でも、利用者の笑顔が職員の自信や原動力になっていた」と話します。

 

平成29年3月31日に飯舘村の避難指示が解除されました。三瓶さんは、「本来ならば歓迎すべきだが、村に戻ってくる高齢者には、職員数が減少した今のホームは希望に添えかねる状態」と言います。ホームは職員の確保が難しく130名の定員を70名に絞って運営している状況であるとともに、震災後に採用した職員はすでに8~9割が退職し、現在残っているのは8名です。三瓶さんは「利用者の受け入れ人数を増やす見通しも立てられない」と言います。

 

しかし、このような厳しい状況でも、三瓶さんは、「村の高齢者の唯一の砦として、社会福祉法人である限り続けたい」と想いを語ります。

 

平成28年4月、震災後初めて新卒の介護職を採用することができました。実習でいいたてホームらしいケアにふれ、周りを説得して就職を決めてくれたといいます。三瓶さんは、「今いる職員がこの地で働くことへの葛藤や苦悩と戦いながらも、ホームに対する熱意や想いが強く、そして、ここで働く職員同士の人間関係が6年半の間ホームを支えてきた。ここが帰村後の高齢者の拠り所だと思ってみんなでふんばってきた。素晴らしい職員たちがここで頑張っているのだから、引き続き利用者を増やせるよう職員募集にも力を入れていきたい」と語ります。

 

昨日からつづく今日。そして、明日への通過点_NPO法人Jin

 

 

NPO法人Jin 代表 川村博さん(左)、事務局長 清水裕香里さん(右)
京都女子大学教授 太田貞司さん(中央)

 

平成29年3月31日。東日本大震災から6年の歳月を経て、浪江町の沿岸部と中心部では避難指示が全面的に解除されました。震災から2年後からは日中のみの立入ができるようになっていましたが、全面解除でようやく浪江町に人が暮らせるようになりました。避難指示の解除を迎えた日をNPO法人Jin代表の川村博さんは、「昨日からつづく今日が来たという感じですね」とふり返ります。人々の暮らしは、そもそも営み続けているもの。被災地を外から見る者は、とかく象徴的なできごとにだけ目を向けがちですが、自立のステージを歩む復興の中で営みを続けなければならない人々にとって、それは一つの「通過点」です。

 

Jinでは、震災前の浪江町で「既存の制度の枠組みに捉われない、自分たちのめざしたい事業所をつくろう」と、「利用者主体と地域生活」を理念に、障害のある人、子ども、高齢者の日中活動、デイサービス、リハビリを行う事業所を興し、運営していました。ところが、震災により利用者とともに町から避難し、その利用者を家族に送り届けるとともに、事業所は形を失いました。そこで、みんなで話し合い、「2年間は町を離れて避難している人たちの支援を一緒に頑張ろう」と決め、仮設住宅で総合相談、デイサービス、サロンなどの機能をもつ「サポートセンター」の運営に取組みました。事務局長の清水裕香里さんは「デイだけ、高齢者のためだけではなく、0歳から高齢者までの困っていることを見つけた。でも、困っていることは変化するから、同じことをし続けないよう気をつけた」と当時をふり返ります。

 

Jinでは、浪江町に日中だけ立ち入れるようになってから、高齢者、障害者とともに避難先から町へ通って土地を耕しました。新しい事業所である「浪江町サラダ農園」はクオリティの高い花や野菜を出荷できるまでになり、避難指示の解除の日を迎えました。その先にめざすのは「日本一」です。「緊急時には手厚い支援が必要だが、1年もすると、『自立』が大切になる。困っている人がいないと仕事にならない福祉ではダメだ。輝く点になれば、人は集まる。まちの魅力はやはり“人”」と、川村さんは強調します。サラダ農園では、サポートセンターを利用する要介護高齢者も自分にできることを担い、ともに復興の道を歩み続けています。

 

「福島の浜通りで起きていること。それは特殊な事例と思われがちだが、実は、日本の福祉の近い未来の縮図でもある」。京都女子大学教授の太田貞司さんは、そう語ります。制度の枠組みが成熟するとともに、改めて制度の枠組みに捉われない姿勢が問われているのが福祉の今です。地域に事業所がある意義とそれを活かすための経営、事業所の再開に対する支援のあり方と厳しい福祉人材確保を乗り越える視点が重要になっています。「地域共生社会」の実現がめざされる中での「福祉」のありようが、これらの事例にこめられています。

取材先
名称
福島県社協老人福祉施設協議会・リリー園・いいたてホーム・NPO法人Jin
概要
福島県社協老人福祉施設協議会
http://www.fukushimakenshakyo.or.jp

(社福)広葉会 特別養護老人ホーム「リリー園」
http://lily-en.com/

(社福)いいたて福祉会 特別養護老人ホーム「いいたてホーム」
http://www.iitate-home.jp/

(社福)博文会 特別養護老人ホーム「オンフール双葉」
http://honfleur-futaba.or.jp/

(社福)ふたば福祉会 特別養護老人ホーム「せんだん」
http://futaba-fukushikai.or.jp/
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