地域でお互いに支え合って暮らす多様な人たち
あらまし
- NPO法人「WELgee」代表の渡部清花さんに紹介いただいたアフリカ出身で難民として暮らすパウロさん(仮名・20代男性)にお話を伺いました。
清花と初めて出会ったのは、当時住む場所がなかった私が身を寄せていたモスク(イスラム教礼拝堂)でした。清花は教会が開催する教室で、難民にボランティアで日本語を教えており、私たちは先生と生徒の関係でした。
モスクはもともとは人が住むための場所ではないので夜はとても寒く、小さなブランケットを取り合うようにして過ごしていました。また、信仰する宗教が違っても、私はイスラム教徒と同じように、毎日5回のお祈りをしました。宗教の違いにより食事が口に合わないこと、お祈りの時に身を清めるための水の冷たさ、そしてモスクの隅の寒く冷えた床で眠る日々に、心も体も壊れかけていました。
入国できると思っていた日本で
私は平成28年の秋に難民として日本に来ました。私の故郷は長く独裁政権が続き、それによって紛争が起こり、日々自分の身に襲い掛かる恐怖や不安から何も考えられない状態でした。「とにかく、どこか別の国に逃れよう」と思いました。
私はビザを持っていましたが空港で入国許可がもらえず、収容所に入れられることになりました。安全な場所を求めて必死に逃げてきて、入れてもらえると思っていた日本で捕まるとは思いもしませんでした。きっと空港の人が私を見て「悪い人」だと思ったのでしょう。自分がどうして逃げてきたのかをいくら説明しても、わかってもらえませんでした。
今思うと、難民申請のシステムについて知っていれば、自分が難民として日本に逃げてきたことをうまく伝えることができたのかもしれません。「私の言うことは信じてもらえないんだ」と感じたので、事実までは話しましたが、自分の気持ちまでは打ち明けることはしませんでした。私のように「難民」でありながら、難民申請について知らない人は多くいると思います。
自国に戻ることはできない
空港の収容所で1か月過ごした後、私は別の収容所で11か月過ごしました。そこは強制送還前の人やビザが切れた人を自国に戻すまでの短い期間を過ごすための場所です。
収容所では、たくさんインタビューを受けました。そこでは、私から「自国へ帰ります」という言葉が出てくることを期待するような質問ばかりのように感じました。でも、「自国に帰ることは自殺することと同じ。そんなことはできない」と心に決めていました。
自国にいたときは、一家で商売をしていました。貿易や販売、小売りのことまで一通りの知識を持っています。しかし、今私は「仮放免」という社会保障等の受給はもちろん、一生就労が認められないという立場にいます。日本で難民の認定を受けられるのは1%にも満たないと聞いています。ですから認定を待つか、自国に帰ることしか選択肢はありません。私の家族は、故郷に残っている者もいれば、別の国に逃げている者もいます。
日本でできた私の家族
今、私が暮らす「WELgeeハウス」には、私と同じような境遇の難民数名と、清花をはじめとした学生たちが共同生活をしています。
ここでの生活は楽しいです。本を読んで勉強したり、音楽を聴いたり、たまに自転車で出かけます。
好きな日本の食べ物はワサビ。魚やホタテにつけて食べるととてもおいしいです。
私は家族と安全に暮らすことはできない人生なのだと思っていました。こんなに安全で平和に暮らせる日が来るなんて思ってもみませんでした。そして、WELgeeの皆は私の家族です。このWELgeeハウスには、無条件の愛の関係性があると思っています。
本当は心から働きたい。仕事をすることを通して、自分の生きる意義を見つけたい。しかし、それが許されない中で、安全に生きること、平和に生きること、皆に愛がありますように、といつも祈っています。
次号では、パウロさんとともに暮らすNPO法人「WELgee」代表渡部清花さんの「くらし今ひと」をお伝えします。
グループナビ
- NPO法人「WELgee」(ウェルジー)
- Welcomeとrefugee(難民)という言葉からつくられた。自らの境遇に関わらず、やりたいことを実現できる社会を掲げて活動している。難民ホームステイ、特技を生かした就労支援、調査白書の作成や発信・啓発活動などに取組んでいる。
https://welgee.jp/