NPO法人Jin 「浪江町サラダ農園」
復興の最前線を拓く高齢者・障害者たち
掲載日:2017年12月18日
ブックレット番号:3 事例番号:33
福島県浪江町/平成26年3月現在

福島県浪江町は双葉町・大熊町の北側に隣接する町です。平成23年3月11 日の東日本大震災では、幾世橋地区で震度6強を観測し、この地震が引き起こした津波により町の沿岸部は壊滅的な被害を受けました。さらに、東京電力福島第一原子力発電所事故が発生し、3月14 日午前に原発から半径10㎞圏内の全域、その日の午後には町の東部全域が含まれる半径20㎞圏内の全域に避難指示が出されました。

翌4月11 日には半径30㎞圏内の地域(浪江町西部の大部分)が計画的避難区域、30㎞圏外にある地域も緊急時避難準備区域に指定され、同22日には20㎞圏内が警戒区域に指定されました。185 人にのぼる行方不明者を出したにも関わらず、大規模な捜索が行われたのは4月中旬以降です。浪江町は地震や津波被害の爪あとを残しながらも、町民は住み慣れた土地を離れた避難生活を余儀なくされました。

平成26 年1月現在、浪江町民は福島県内に14,644 人、福島県外に6,446 人が避難しています。県内も分散して最も多い福島市に3,572 人、いわき市に2,426 人、二本松市に2,415 人、郡山市に1,705 人、南相馬市に1,170 人といったように、幅広い地域に分かれた避難生活となっています。

 

特定非営利活動法人Jin は、平成17 年に浪江町に設立され、震災が起きる前は、「利用者主体と地域生活」を理念とした事業所をめざして、障害のある人、子ども、高齢者の日中活動やデイサービス、リハビリ等を行っていました。約1 万㎡の畑では、無農薬・無肥料で野菜を栽培し、その生命力をいただいていました。鶏、ヤギ、ウサギなどを飼っていました。

けれども、震災以降は、事業所も休止となりました。それでも、平成25 年4月に事業所のあった浪江町幾世橋地区が「避難指示解除準備区域」に再編され、日中、立ち入ることができるようになったことから、Jin は高齢者・障害者とともに、「サラダ農園」としてふるさとに帰ってきました。

 

 

Jin がめざしてきた福祉

Jin代表の川村博さんは、浪江町の農家に生まれ育ち、高校卒業後、「心を大切にする仕事をしたい」と思い、福祉の仕事を志しました。大学卒業後は最初、知り合いの誘いで淡路島の児童養護施設で働き始めました。「知的障害のある方を支援する仕事をしたい」という気持ちもありましたが、「まあ、急がなくてもいいか」と思いました。1年半ほどその施設にいましたが、親から「地元に戻ってこい」と言われ、その後、15 年間は南相馬市にある福島県福祉事業協会の障害者施設で働きました。その頃に、県内全ての小規模作業所を訪ね歩き、障害の種別や重い軽いなどで分けるのではなく、自然に接することをテーマに「ごちゃごちゃした人間関係を作りたい」と思うようになりました。

 

その後、「介護老人保健施設の立ち上げと運営をしてほしい」という話があり、「自分が思う支援を展開するためには拠点が必要だろう」と思い、喜んでそれを引き受けました。7年働いて、その施設は退職することになってからは、心の病気にもなり、実家の農家を手伝い、日の出とともに畑へ行き、日が暮れると家に戻る生活を続けました。

草や虫、雲や風が相談相手でした。でも、それで元気を取り戻すことができ、そろそろ仕事をしようと思い、賛同してくれた仲間と浪江町に平成17 年に立ち上げたのがJin でした。Jin は「仁」を表します。それまでの想いをこめて始めたのが前述の事業所です。

 

避難先で避難した人たちの支援を頑張る中で…

それから6年間で想いの実現を積み重ねてきた事業所でしたが、東日本大震災と原発事故により町を離れることになり、休止に追い込まれてしまいました。

事業所は原発から7.2㎞の距離にありました。3月11 日の震災当日は通所施設として利用者たちを家族のもとに送り届けようとしたものの、家族に会うことができない方もおり、混乱した避難所は障害者や高齢者がしのげるような状態ではありませんでした。その夜は、事業所に戻り、身を寄せ合って余震に耐えました。翌12 日の早朝、原発事故があったので直ちに避難するよう知らせがあり、着の身着のまま、職員を含めて39 人が5台の車で西へ避難しました。その後、22 日にようやく最後の利用者を家族に送り届け、利用者の避難生活支援を終え、それとともに、事業所は休止となりました。

 

Jin の職員たちは避難先の二本松市で「ここに生きる我々は、どう生きるべきか」と考えて、皆で話し合い、「2年間は浪江町を離れて避難した人たちの支援を頑張ろう」と決めました。そこで、分散した浪江町の人たちのために、福島県内の避難先である仮設住宅に併設するサポートセンターを3か所、障害者の日中活動の場を2か所、相談支援事業所を1か所開設しました。サポートセンターでは、避難者の生活不活発病防止等に努め、体操教室や交流サロン、さまざまなクラブ活動を行い、仮設住宅内のコミュニティづくりに努めました。

 

まずは南相馬市にサラダ農園を立ち上げる

人が立ち入ることのできなくなった浪江町の風景は避難生活が長引くことで荒れ果てていきました。その状況を憂えた川村さんは「ふるさとの風景を美しくしなければならない」と考えるようになりました。「荒れ果てていてはダメだ。誰がそれをやれるのか。それは農業者だろう。でも、戻ってくる若者たちがいない。ならば、障害者や高齢者たちで復興を担おう」と考えました。

そして、震災から1年が経った平成24 年4月。Jin は、まず浪江町の北側に隣接する南相馬市の原町区に「サラダ農園」を立ち上げました。南相馬の「サラダ農園」では、浪江町出身で各地に散らばっていた高齢者や南相馬市の障害者たちが、日中、畑で野菜を作り、それを「道の駅」などで販売して好評を得ています。平成25 年4月からは、就労継続支援A型(定員10 名)、生活介護(定員10名)の事業所に移行しました。

いろんな野菜が入っていることでサラダは美味しくなります。「サラダ農園」という名前にJinではいろんな人の個性を活かし合えるようにという想いをこめています。

 

一方、避難生活が長期化するとともに、県外からさまざまな支援団体が仮設住宅を訪れて、仮設住宅が並ぶ一つの敷地内に16もの支援団体が入っているような状況となりました。いくつものプログラムが提供され、避難者が困らなくなりました。それは避難者の自立を支えるための活動というよりも、支援団体が実績を上げるために避難者を奪い合う姿にもみえました。それを見る川村さんは「これでよいのだろうか・・・」と思いました。これは今なおみられる姿です。

浪江町の高齢者たちは何十年も浪江で農業を営んできた人たちです。避難先のサポートセンターでの農業の真似事では飽き足らず、「もう一度、畑仕事をしたい」という声が聞かれるようになりました。川村さんは「浪江町の復興を担う仕事をしよう」と心に決めました。

  

南相馬市のサラダ農園

 

復興を願う高齢者、障害者が浪江町のサラダ農園へ

平成25 年3月7日に政府原子力災害対策本部は、警戒区域等の見直しを決定し、同年4月から浪江町は「避難指示解除準備区域」「居住制限区域」「帰還困難区域」の3 区域に再編されました。早期の帰還をめざす「避難指示解除準備区域」として沿岸部の地域や中心部にある地域が指定され、「居住制限区域」にはその西側の地域が指定されました。この2つの区域には、原発事故の前は住民の83%が住んでいました。一方、残りの住民が住んでいた山間部などは長期にわたって帰還が難しい「帰還困難区域」に指定され、引き続き立ち入りが制限されています。沿岸部からは福島第一原発を臨むことができますが、事故当時の風向きの影響で原発からの距離が近い沿岸部や中心部はむしろ相対的に放射線量が低く、「避難指示解除準備区域」となっています。

 

 

この区域再編に伴い、浪江町内への立ち入り制限は緩和され、避難指示解除準備区域及び居住制限区域では、一部事業について事業再開又は新たな事業所の開設が可能となりました。この2つの区域には午前9時から午後4時の日中に立ち入ることができます。ただし、15 歳未満の子どもの立ち入りは引き続き制限されています。

もともとJin の事業所のあった浪江町幾世橋地区は「避難指示解除準備区域」となりました。仮設住宅等の生活になじめないがゆえに町に戻ってきた障害者もたくさんいました。

 

もう一度、町で畑仕事をしたい高齢者もいました。そして、何よりも復興を願う浪江町のために、Jin はここで事業所を再開することを決めました。

しかし、2年以上もの間、立ち入りが制限されてきた浪江町は津波被害の遭った沿岸部もまだその爪あとを残し、中心街も地震の傷あとを残しています。そして、もともとは美しい田園風景だった田畑にはセイタカアワダチソウやススキが生い茂り、イノシシなどの動物が町を荒らしています。

日中の立ち入りが可能になった平成25 年4月から早速、もともと事業所があったところに、南相馬市に続き浪江町にも「サラダ農園」を開設しました。そこに畑を再生し、ブドウも栽培しています。そして、ニワトリが174 羽、ウサギが29 羽います。この復興の手助けをしたいと賛同してくれた高齢者、障害者が日々、二本松市や本宮市の仮設住宅、南相馬市の事業所を車で出発して浪江町のサラダ農園で農業を営んでいます。

荒れ果ててしまった風景ですが、それでも、その一角には今、緑豊かな「サラダ農園」が再生して彩りを与えています。浪江町の「サラダ農園」に集まった高齢者、障害者は「避難者」ではありません。「支援する・される」の枠組みを超えて、厳しい環境の中でも復興に携わりたいという人たちであり、浪江町の復興の主体そのものです。

 

3年の月日を経てなお復旧の槌音すら響かない浪江町の沿岸部

 

震災後、電車が来ることのない浪江駅

 

 

浪江町の一角を彩るサラダ農園

 

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NPO法人Jin 「浪江町サラダ農園」
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