NPO法人Jin 「浪江町サラダ農園」
復興の最前線を拓く高齢者・障害者たち
掲載日:2017年12月18日
ブックレット番号:3 事例番号:33
福島県浪江町/平成26年3月現在

厳しい環境の中、次世代へバトンタッチするために

しかしながら、南相馬市のサラダ農園と違って、浪江町のサラダ農園で育てた野菜は現時点でまだ出荷することが叶いません。放射性セシウムを継続的に測定して安全性を確認してもお店で取り扱ってもらえるに至りません。

そして、何よりもショックなのは、ある日突然、天候によって放射線量が高い数値になることがあることです。川村さんは心が折れそうになります。しかし、続けていくことでいろんな発見もあります。ニワトリは放射性物質を摂取しても決して体内に蓄積されないことがわかり、玉子は出荷できるようになりました。そして、放射能が残らない野菜や果物の育て方や処理方法も少しずつわかってきました。復興の最前線にいる高齢者と障害者とともに、ここでどんな農業ができるのか。県の相双農林事務所や町の産業再生係、仲間にも相談して一生懸命考えています。

浪江町のサラダ農園を再開する直前の平成24 年12 月のこと。浪江町の事業所のあった畑に一羽のウサギが生き残っていました。足もとに寄ってきたときには、川村さんも驚きました。Jin では、このウサギを「うさ」と名づけて、今ではその子どもたちが約30 羽にまで増えています。川村さんは「僕たちも先祖から受け継いだこの土地を責任をもって次の世代にバトンタッチしたい」と話します。そして、今後は、多くの町民が町に帰ってきたときのために、一時休憩所やりたいと川村さんは考えています。そのために、水質検査を継続的に行っています。

 

南相馬市の道の駅に出荷している玉子

          

震災後、浪江町で生き抜いた「うさ」(右)      サラダ農園で元気に暮らす「うさ」の子どもたち

 

多様な生き方を支えながら復興の道のりをすすむ

避難から3年が経過する中で、南相馬市や浪江町のサラダ農園に来ている高齢者、障害者たちとは別に、あれほどまでに浪江町に帰りたがっていた高齢者から、新しい生活が落ち着きつつある中で「浪江町には戻らない」という人も出てきました。川村さんは「浪江に戻る高齢者、戻らない高齢者。どちらが正しいということはない。それはそれでよいと思う」と話します。そして、「ならば、それも応援したい」と川村さんは考えています。避難先での浪江町の復興に携われることへの支援です。

 

Jin はかつて浪江町の人とともに、浪江町にありました。今は町の人々もかつての利用者もJin の職員もそれぞれの事情でそれぞれの場所に暮らしています。その人が暮らしているところが地域です。新たな地域で暮らしていこうとする人も、人と人とのつながりの中で暮らしていけるよう、その支え合い、地域づくりを応援していきたいと川村さんは想いを馳せます。

町の人たちがもつ一つひとつの想い。たとえニーズが多様に変化していったとしても、20 年後、30年後に「高齢者や障害者が浪江町の復興を担った」と誇りをもっていえるよう、Jin は活動を続けていこうとしています。

 

J i n 代表 川村博さん

 

 

 

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NPO法人Jin 「浪江町サラダ農園」
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