(社福)大洋社 常務理事 斎藤弘美さん
温故知新 〜祖母、母の世代を経て法人が創設時の想いをつなげていく〜
掲載日:2018年5月15日
2018年4月号・5月号 福祉職が語る

(社福)大洋社 常務理事 斎藤弘美さん

 

当時の母子寮と保育園の敷地の一角にある家で私は生まれ育ちました。施設のお母さんたちは働き者が多く私の面倒も見てくれ、小さい時からたくさんの人に囲まれて育ちました。

 

小学校4年生頃まで、毎年年末はある保育士の実家がある菅平高原に妹と行っており、ずっと自分はスキー選手になるのだと思っていました。後に聞いた話では、母は施設の資金集めにあちこちを渡り歩いており、資金の目途が立つと私たち姉妹を迎えに来てやっと年が越せる状況だったそうです。

 

祖母、母の世代を経て

祖母である故片山ハルエは、想いを次々に形にしていくタイプの人でした。元々、教員だった祖母は、自身の離婚の経験などから女性が職業に就くことや自立の大切さを実感していました。和洋裁を教えながら、自宅を開放して託児所をつくり、相談事業も行っていました。そして、関東大震災(大正12年)などで困窮した母子の保護のため、大正17年に個人で母子保護法に基づく母子寮を始めました。これが「社会福祉法人大洋社」の始まりです。

 

祖母には3人の娘がおり、長女と、次女である私の母(飯島益美)が母子寮を担当し、三女が保育園を担当してきました。母は、記録に残すことを大切にしてきた人です。祖母が行ってきたことや、大洋社創設時の想いなどを言葉として残す作業に力を注ぎました。そして、同時に母子が地域の中で孤立してしまわないように「地域福祉」をとても大切にしていました。

 

いま振り返ると、言葉で残っているものでしか記憶や歴史をたどれません。創設時の想いを知ることは、社会福祉法人としてこれからの方向性を考えていくうえで欠かせない視点です。これが欠けた状態では迷った時に大切なことが見えなくなってしまうことに気づかされます。

 

あなたは福祉に向いている

祖母には、私を含めて6人の孫がいました。機会があるごとに孫を集めて「人の役に立つ仕事に就きなさい」と話していました。私に対しては「あなたは、じっくり人を見る性格だから福祉をやりなさい」と言いました。その後、特に将来には迷わず福祉系の大学に進学し「家族社会学」を学びました。

 

しかし、その後20歳を超えてから遅い反抗期が訪れます。祖母や母の昔の話を聞くのがとても嫌で、当時は、昔のことを大事にすると先が見えなくなる気がしていました。

 

他の組織で学ぶ

大学卒業後に、法人からの出向として全国社会福祉協議会で1年間勤務しました。ちょうど全国社会福祉法人経営者協議会(以下、経営協)が立ち上がる年で、これから福祉業界や社会福祉法人が変わっていくのだと多くのことを学ばせてもらいました。当時の経営協の方から「自分の施設の創設の想いを語れるか」と指摘されたことがとても印象に残っています。

 

その後、母子の現場で働きつつ、当時、青山通り沿いにあった「こどもの城」で1年間経験させてもらいました。この時の経験が、その後の地域の中の子育てを考えるきっかけになりました。一時預かりなどの保育スタイルもこの時の経験からどうしてもやりたいと思ったことです。

その後、現在の母子生活支援施設「ひまわり苑」での勤務を経て結婚、産休・育休を経験しました。その間、身につけたかった知識として、会計事務所で簿記を学んでいた時期もあります。

 

人事組織面の課題

大正末から昭和30年頃にかけての祖母の時代、昭和30年頃から平成10年頃にかけての母たち姉妹の時代を経て、その後、私が経営者としてかかわるようになった平成10年頃からは、運営施設が3か所から5か所に増え、人件費の課題や人材・組織面の課題も出てきました。他分野や企業と比較するとこのままでは今後生き残っていかれないという危機感がありました。

 

苦手な分野を避けては通れないと、日本社会事業大学専門職大学院に入り福祉経営のゼミに所属しました。「事業創設時の想いが続くように人を育てられるか」が研究テーマでした。ゼミでは、高齢分野を中心に施設見学や経営者から話を聞く機会が多くありました。施設の機能が多様になっても質は下げてはいけない。どの職員も育つ方法を考えなければならないのだと考えさせられました。また、社会福祉法人の経営は地域から孤立したものであってはいけないという思いもありました。

 

自分の法人の想いを語れる職員

他の組織や大学のゼミでの学びから、創設者の想いを語れるとともに、これからの福祉に何が必要か考え提案できる力を職員には身に着けてもらいたいと考えるようになりました。そして、祖母や母が苦労してまでこの仕事で何をめざしていたのかが、ようやくわかってきました。

 

これまでの経験を活かして、マトリックス型の経営を採用し、各施設を、地域福祉や危機管理、苦情解決のしくみなどの委員会で串刺し、創設の想いを他の事業を行う際にも大切にしていく方法を採用しました。

 

また、10年前より法人内で「人材育成プロジェクト」を設置しています。平成25年6月には最初の取組みとして33頁にわたる行動指針を職員が作成しました。平成25年度からは各施設の職員による実践発表会を開催しています。職員一人ひとりに軸と想いがないといけないと思っています。

 

地域福祉への想い

平成28年度まで15年間、東社協の地域福祉推進委員会に関われたことは本当に楽しかったです。他の種別の方の状況や考えを聞き、大事なヒントがたくさん得られました。そして、自分の意見を持ち視野が広がり、地域福祉が更に好きになりました。

 

現在、推進している地域公益活動についても、どうすればどこにたどり着くのかイメージを持つようにしています。私の中の、地域共生社会の街づくりの未来ビジョンは、施設の中だけでなく地域の人にとっても福祉的なつながりがお金には代えられないものになるはずだと感じています。

 

頑張りすぎない自分の頑張り方を知ることは、職員だけでなく利用者も地域の方にも必要なことです。今いる人の顔を見て、その人の成長できる方法を一緒に考え、提案できるイノベーティブなこともこの業界には必要です。これから先どのようなニーズが増え、どのような支援が必要になるのかにアンテナを張り、資源開発していくことも必要です。

 

生きる力

人の気持ちの中でも、「うれしい」「楽しい」を伝えるのは意外に難しいです。ひまわり苑では、利用者の笑顔をどう拾い伝えられるかを職員が考え、「笑顔プロジェクト」を実施しています。さまざまな場面での利用者の笑顔の写真を集め、職員が動画を作成し施設内で上映しました。お楽しみ会等よりも、大掃除をしていたときの利用者が一番いい笑顔をしていたことに担当職員が気づきました。自分に役割があり、人に喜ばれることがこんなにいい表情につながるのだと発見した出来事でした。

 

それは「生きる力」にもつながります。祖母が、「泥棒に入られても、資格や身に着けたものはけっして盗まれない」とよく言っていました。祖母にとってのそれは、教育であり躾でした。祖母や母に昔言われたことを気づいたら今やっていることを思い知らされます。「生きていくために自分のアイテムを持つ」と言っていた母は、社会の中で生きていくのに必要なこととしてお茶を出すことを利用者に教えていました。そして、子どもに未来をつくってあげたい、いろんな経験をさせたいと子ども会活動や学習支援にも熱心でした。そして、勉強だけでなく健康づくりや世界を見る目も身に着けさせたいと願っていました。「大洋社」という名前には海を渡るような子ども、世界に羽ばたくような母と子にという願いが込められています。

 

これまで、そしてこれから

転機は何度もありましたが、迷ったときに面倒を見てくれる人、助けてくれる人がたくさんいました。全国経営協の初代会長に言われた言葉を今でも大切にしています。「私に返さなくていいから後輩に返しなさい。人を育てなさい」という言葉です。先輩方にもらったものを、次の時代の人たちに返したい、人を育てたい、次の未来をつくりたいと思っています。

 

社会福祉法人としての福祉経営という経験の中から得た他にはない大事な要素を、法人の想いをのせて活かしていくことが次の時代の人に自分ができることだと思っています。

 

 

プロフィール

  • (社福)大洋社 常務理事 斎藤弘美さん
  • 大正末から母子家庭や子どもの自立支援のために事業をはじめた社会福祉法人大洋社の常務理事。東京生まれ、淑徳大学卒業、全社協(出向)、こどもの城、会計事務所、母子生活支援施設職員となる。平成23年3月日本社会事業大学専門職大学院卒業後、福祉経営のあり方を改めて考えるようになり、現在、東京都社会福祉経営者協議会と東京都母子福祉部会の副会長、大田区社会福祉法人協議会幹事として活動。
取材先
名称
(社福)大洋社 常務理事 斎藤弘美さん
概要
(社福)大洋社
http://www.taiyosha.or.jp/
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