実方 裕二さん
自分の生活の中から生まれてきた「伝えたい」と「伝える」責任
掲載日:2018年7月9日
2018年6月号 くらし今ひと

実方 裕二さん

 

 

あらまし

  • 世田谷区で自立生活を送りながら、手づくりのケーキの移動販売とCafe「ゆうじ屋」を経営している実方裕二さんにお話を伺いました。

 

母の言葉があったからこそ

私は、出生時に仮死状態で生まれ、脳の酸素不足による後遺症から重度の脳性麻痺があります。手足が不自由で言語障害もあります。約50年前、都内の養護学校は2か所のみで、世田谷区の東京都立光明養護学校へ入学しました。小学3年の夏に家族で世田谷へ引っ越すまで、生まれた大田区から母の運転する車で通学しました。

 

小さい頃、よく母はデパートに買い物に連れて行ってくれました。ある時、エレベーター内で私を見る他人の目が嫌で、俯いていました。その後、昼食中に母が「あなたは悪いことをしたわけでないのだから、前を向きなさい」と言いました。その時は「そんなこと言われても」と反発しました。ですが、前を向く今があるのは、「おふくろのお陰」と思っています。

 

生活・自立ということ

高校の頃まで、家族が全て介助してくれ、やってくれることが当たり前になっていました。私には姉と兄がいて、私の介助はほとんど2歳上の兄がしてくれていました。兄が大学生になると本人も「遊びたい」と、早めに私を寝かせて、夜出かけていきました。「なんで僕だけ早く寝なきゃいけないの」と思っていました。

 

外出は、いつも家族と一緒でしたが、養護学校の友人たちと遊ぶうちに、友人たちと出掛けたくなり、片道40分かけて車椅子で出掛けました。これが初めての「親離れ」だったと思います。20歳の頃、自立生活をするために家を出ました。その後、学校の先輩が行う障害者運動にかかわりながらも、昼過ぎに起床してパチンコ屋で遊び、夜は会議に出て、終わったら飲むという自堕落な生活を送っていました。

 

友人の一言で目が覚めた!

そんな生活を送る私に、音楽のバンド仲間から「障害者だからって甘えるのも大概にしろ」と叱咤激励されました。そして、「働けば?」とも。それまで、周囲から働けと言われたことはなく、自分も最初から諦めていました。

 

仕事を考えた時、思いうかんだのは「食べ物」でした。食べることは好きで、カレーなどを食べ歩いていました。また、一人暮らしの生活の中で、介助者につくり方を伝えて食事をつくってもらう調理法が、自分なりの方法だと思ってきていました。いずれはお店をやりたいが、勇気がない。そんな時、バンド仲間のありがたい計らいで、ライブ会場で食べ物や飲み物を販売するチャンスと同時に、集客や売る工夫など商売のノウハウを学ぶ場を得ました。これが「ゆうじ屋」を始めたきっかけです。

 

伝える責任

ゆうじ屋では、オリジナルレシピのカレーやケーキを販売し、電動車椅子での移動販売も始めました。また、調理場にしていた都営団地が建替えとなり、引っ越し先が手狭だったのをきっかけに、2012年三軒茶屋にCafe「ゆうじ屋」をオープンさせました。

 


時々、障害者の親に、「一人で生活して、お店をやって偉い。うちの子には難しい」と言われますが、私も介助者の力を借り、助言してくれるからお店が続いています。障害者であれ、健常者であれ、一人で生きていけるわけがない。一人で生きなくても、いろんな人と影響を受けあいながら生きて行けばいい。それが、障害者の自立生活です。どんな人でも、本当はそっちの方が楽で生き生きと生活できる、という生活を実践して伝える責任が私にはあると思っています。

 

障害者の自立モデルをつくりたい

重度障害者は、養護学校を卒業したら、ほとんどが施設へ入所になります。しかし、私のように料理をつくり、販売する仕事をしながら、介助者がいて生活することができる。そんな重度障害者の自立モデルがあってもいいと思います。こういう生き方もあると伝えていきたい。

 

今は、誰しもが生きづらさを抱えています。私がこれまでの生き方で「人と違ってもいい」と思えるようになったからこそ、もっと外に出て「伝えたい」し、「伝える」ことの責任があると思っています。

 

 

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