(社福)大島社会福祉協議会、大島町子ども家庭支援センター、ホテル椿園 清水 勝子さん、大島マリンズFC
大島土石流災害から5年の福祉〜日々を取り戻してもなお…。そして、新たなつながり〜
掲載日:2018年10月9日
2018年10月号 NOW

直後よりも後になって影響が… ―大島町子ども家庭支援センター

大島町子ども家庭支援センターにて、発災前は「子育てひろば」に0〜3歳児の親子が訪れて自由に過ごしたり、学童放課後サポート事業では、学齢期の子どもたちが自由に出入りして遊んでいました。

 

発災時、スタッフの1人も家が全壊する被害を受けました。また、センターの保健師1人が半年間、本庁で災害支援業務に就き、センターのある旧小学校の敷地全体が災害支援に当たる自衛隊の活動拠点となり、ひろば事業は運営できなくなりました。再開できたのは1か月後。大きな災害なので、利用者も休止は「やむを得ない」という雰囲気でした。

 

一方、センターには新たな業務が次から次へと発生しました。例えば、被災した子どもについて搬送された島外の病院に連絡してみると、病院側も「大島から来た」ことと名前だけしかわかっていない状況でした。そうした子どもの親族と連絡をとり、付添いや保険証の再発行など、やらなければならないことが山積み。センターは、両親が亡くなった子どもなど非常に大変なケースに特化し、支援に当たりました。それは家の片づけから、未成年後見の手続き支援までさまざまでした。

 

そして、当時、センターの社会福祉士を務めていた星朗子さんは「直後よりも1年、2年という時間が経ってから『夜眠れない』『雨が怖い』という子どもが出てきた。小学生に限らず、中学生や高校生も。外では元気にふるまえるのに、家では泣いてしまうとか」と話します。専門家から「後になってからPTSDの症状が出るだろう」とあらかじめアドバイスを受けていたので、それは心の正常な反応ととらえ、関係機関へ適切につなげることに努めました。星さんは「子どもから話さない限り、無理に介入して反応を引き出すより、大人は普通に関わりつづけることが大切」と話します。

 

厳しい状況にありながら泣かない子ども。姿が見えないので探してみると、自分の家があった場所で一人泣いていました。大人が思う以上に子どもはいろんなことを考えていました。大人が自分のために頑張ってくれていることをわかっているからこそ、自分の気持ちを大人の前では出さない。そんな子どもなりの気持ちに改めて気づかされることもありました。

 

左:大島町子ども家庭支援センター ワーカーマネージャー 山本 千尋さん
右:大島町子ども家庭支援センター 保育士 浜部 美保さん
中央:大島町福祉健康課 被災者支援係 星 朗子さん

 

亡くなった人を思うと悔しくて ―被災し、本館を取り壊したホテル椿園

土石流災害のつめあとを残した山肌は5年の月日を経て緑色に覆われてきました。山を見つめながら、「不思議と山に憎しみは感じない。雨が降ると怖いと感じますけどね」。ホテル椿園の女将さんだった清水勝子さんは、そう話します。

 

発災時、「ホテル椿園」では1階部分が土砂に埋め尽くされ、55人の宿泊客は互いに声をかけあい、幸いにも全員が無事でした。そして、近隣住民の「助けてくれ」という声を聴き、宿泊客がその住民を助け出してくれました。それでも、椿園の周辺では数多くの方がこの災害で亡くなりました。被災したホテルの本館を取り壊すとき、覚悟はできていたのに清水さんは涙が出てきました。「さみしかったのは、ホテルとともにあった地域の人がいなくなってしまったこと」。地域の亡くなった人のことを思う気持ちを「悔しくてしょうがない」と話します。その悔しさと向き合う。それが清水さんの今です。

 

清水さんは「実際に起きたことや自分の想いを伝えよう」と、「語り部」という活動に取組んでいます。清水さんは「私が伝えていきたいのは、『声をかけあう』ことの大切さ」と話します。気持ちに区切りはなかなかつきません。「もっとやるべきことがあったのではないだろうか。失って初めて気づく大切なもの。それは、守ってきたはずの『地域』。最初は、『私は生かされてしまった』という気持ちが強かった。ひょんなことから気持ちが前に向き、前を向くからには、前にすすんでいかなければ」と話します。今は、民生児童委員にもなって活動しています。

 

ホテルの敷地内には、奇跡的に被災を免れた古い建物が一つ残されています。江戸時代に建てられた「新町亭」。この建物は、大島の福祉の歴史とつながりをもっています。それは大正8年のこと。当時の藤倉電線株式会社の敷地内にあった「新町亭」は知的障害者の教育のためにと寄付され、そこに創設されたのが、現在、大島で障害者支援施設として運営されている「藤倉学園」です。また、発災後、清水さんのもとに宴会などで椿園をご利用されたお客様から気遣いの連絡もありました。失われたホテルは人々の想いが詰まった存在でした。椿園で使っていた食器は、ボランティアと一緒にきれいに洗い、地域で再利用してもらっています。

 

ホテル椿園 清水 勝子さん

 

島外の子どもとの新たな交流 ―島内で唯一の少年サッカーの大島マリンズ

発災当時、被災した元町地区を中心に混乱が続き、野球やサッカーなど子どもたちの活動は休止され、秋に予定された学芸会の行事なども縮小されました。また、懸命な捜索活動が続く被災現場のすぐ近くにあった「つばき小学校」のグラウンドはガレキの山が積まれました。

 

大島で唯一の小学生のサッカーチームである「大島マリンズ」。息子がチームに入ったことを機にコーチを務めていた今津登識さんが監督になったのは、まさに土石流災害のあったその年のことでした。発災後、今津さん自身も災害支援業務に追われる中、「むしろ、子どもたちは体を動かしてやった方が良いんじゃないか…」と思いましたが、それをかなえてあげることはできませんでした。マリンズが練習を再開できたのは、発災から1か月後。そして、発災前に練習していたつばき小学校のグラウンドに戻ることができたのは半年後でした。ガレキが撤去された後にも、残念ながらグラウンドにはその破片が残りました。今津さんは、「現場から一番近くて広い場所だったんだからガレキが積まれたことは仕方がなかった」と話します。

 

一方、災害後、サッカーを通じて島外の子どもとの新たな交流も生まれました。島内で唯一のチームだったので、それまではひたすら練習だけの繰返しでした。それが災害をきっかけに支援に来てくれた方たちとの出会いを通じて思わぬ招待を受け、子どもたちは遠征試合を経験できました。また、島外のチームが島へ来てくれました。大島の子どもが島外の子どもにクワガタムシがたくさん採れるところへ案内すると、「すげえなあ」と言ってもらえます。「災害があったから」でなく、子どもたちは自分なりの経験の中で成長します。「島外の子どもと仲良くなって、言葉遣いが変わったりもする。下品な言葉もね」。今津さんは、笑顔でそう語ります。

 

大島マリンズ監督 今津 登識さん

 

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「災害から〇年」。それは一つの通過点にすぎません。どこに到達するための通過点なのかを今も探し続ける「災害から5年」。そうした中ですが、被災者の生活支援を通じて、関係機関がそれまで以上に一緒に動くということがあたり前になってきました。これは、大きな災害を経験した大島町の福祉が得た大きな宝です。
大島社協では、災害から5年目となる10月15日に今年もキャンドルナイトを催します。

 

目次へ(福祉広報2018年10月号)

取材先
名称
(社福)大島社会福祉協議会、大島町子ども家庭支援センター、ホテル椿園 清水 勝子さん、大島マリンズFC
概要
(社福)大島社会福祉協議会、大島町子ども家庭支援センター、ホテル椿園 清水 勝子さん、大島マリンズFC
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