相馬市立相馬愛育園
児童養護施設における子どもたちの震災
掲載日:2017年11月30日
ブックレット番号:1  事例番号:5
福島県相馬市/平成24年3月現在

 

福島県相馬市にある市立の児童養護施設「相馬愛育園」には、3月11日の震災発生時に幼児から高校生までの39人の子どもが在籍していました。当日、春休みを迎えた中高生は園内にいたり、部活などで出かけていました。午後2時46分。それは小学生がちょうど下校にさしかかる時刻でした。

 

園内と園外にいた子どもに手分けして対応

 職員は地震とともに園内にいた子どもたちをテーブルの下に避難させて、収まってから食堂に集めました。園は海岸から離れた内陸部にあったため、津波は到達しませんでした。

園長の木下旬さんは「夜だったら極めて少ない職員体制だったが、職員の多い時間帯でよかった。それでも目の前の子どもたちを落ち着かせるのに精一杯だった。休みの職員が応援にかけつけてくれて、外にいる子どもたちの安否を確認し、小学生を車で迎えに行くことができた」とふり返ります。

子どもたちの無事を全員確認できたのは夕方でした。しかし、職員2人の安否が確認できません。2人ともローテーション勤務の休日で自宅にいたところで津波に遭い、一人は翌朝に連絡がとれました。もう一人は2階の天井まで来た水に家ごと流されて、かろうじて助かりましたが、携帯電話も流されたため、数日間、施設と連絡がとれませんでした。

幸いにも子ども、職員は全員無事でしたが、実家を津波で流されたり、親戚を亡くしたりした子どももいました。

 

数多くの物資や寄附の支援の申し出

施設には3日分の非常食の備蓄があり、食材などが入らなくなりましたが、地元の業者が米などを提供してくれました。2週間を乗り切ったところで物資が入り始めたものの、それでも、乳製品は4月下旬までなかなか入りませんでした。おむつや生理用品は底をつきそうになりましたが、支援物資のおかげでしのぐことができました。

 

木下さんは「半年だけで例年の3倍くらいの寄附や物資の支援の申し出をいただいた。2~3か月経って落ち着いてくると、もらうのがあたり前でない本来の状態に戻すことが子どもにとっても必要となってくる。そうした中にあって、『ポニーを連れてきてくれる』といった形で体験の機会を提供してくれる支援などはありがたかった」と話します。

 

子どもたちと向き合った日々

夜、寝るときには、子どもたちを食堂に集めて布団を敷き、身の回りのものを枕元に置かせていつでも園庭に避難させられるよう、最低2人の職員が余震の対応に努めていました。困ったのは、福島第一原発の事故により、外で遊ばせることができず、ストレスの発散の場がないことでした。ストレスをためないためには好きに過ごさせるしかなく、すると、どうしてもわがままになり、4月中旬に学校が始まったものの、その状態を元に戻すのに5月末までかかりました。

 

さらに、テレビで見る映像に慣れてくると、現実との感覚がズレてきます。そこで5月末には、子どもたちにあえて市内の被災した地区を見学させました。身近に知っていた相馬の街です。その惨状を目にすることで、涙を浮かべる子どももいました。原発事故で中断してしまいましたが、被災直後には中高生が市の災害対策本部で物資の仕分けや炊き出しのボランティア活動に参加しました。「それでも、放射線のような目に見えないものはなかなか言葉で理解させられない。職員が園舎や園庭を除染する姿を見せることでようやく理解してくれる。特に中学生ぐらいになると、反抗期もあり、体験的な理解が必要になる」と、木下さんは指摘します。

 

ようやく落ち着いた9月からは職員による個別対応を始めました。震災時のことを聴き取ってみると、「余震があるから眠れなかった」という声が出てきました。「被災直後にはそういう訴えは出てこなかった。あの頃、子どもたちなりに緊張して、切り抜けるのが精一杯だったのだろう」と、木下さんは話します。

 

子どもの安全を確保する責任の重さ

措置施設である児童養護施設として厳しい局面に立ったのは、3月中旬に原発事故による避難区域が広がっていったときでした。市は津波被害の対策に追われており、児童相談所は交通も分断されたいわき市にありました。

 

木下さんは「もしも急に市民と一緒にバスに分乗して避難することになったら、それを子どもたちに説明して理解させるのは非常に難しい。受入れ先を確保し、職員が車に分乗して避難できる準備をしておかなければならなかった。児童相談所自身が被災し十分に機能できない中、安全確保について施設が独自の判断でそれをすすめることには相応の覚悟が必要だった」と話します。

 

震災が呼び覚ました親子の絆

経済的な理由で子どもを育てることができなかった親から、今回の震災をきっかけに「子どもを引き取りたい」という申し出が施設にあり、夏休みには条件が整い、親もとに帰れた子もいました。3年前に連絡があったきりの親、生まれてから5年間も音信不通だった親さえ、震災を機に、子どもに連絡してきたケースもありました。木下さんは「どんな反応を見せるのか、反発もあるのかと子どもたちを見ていると、普段、聞いたことのないようなうれしそうな声で親と話している。さまざまな課題を抱える親子でも、子どもの生命に関わることになると親であることを思い出し、親子が絆を確認しあう姿がそこにはあった。ただ、それでも連絡のない親はいる。そういった子どもにも気を配っていかなければならない」と話します。

 

福島県内では、21人の子どもが震災遺児となりました(被災3県で240人)。従来、親を亡くして親戚宅に引き取られた遺児が新しい生活になじめず、半年、1年経ってから児童養護施設に入所してくるケースがありました。子どもたちの悲しみやつらさを忘れずに支えていくことは引き続き大きな課題です。

 

子どもたちを守った「相馬愛育園」

 

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相馬市立相馬愛育園
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