福島県南相馬市/平成29年3月現在
東日本大震災の際、速やかに避難できなかった障害児者、また、指定された避難所に避難したものの避難所での生活に対応できず自宅にとどまっている方がいました。そういった経験から震災後、福島県南相馬市では、障害児者が安心して生活できる避難所のあり方を関係者が検討してきました。その検討をふまえて福祉避難所の指定がすすめられ、平成28年3月末現在で南相馬市では32の福祉避難所が指定されています。そのうち10か所は障害者施設が福祉避難所となっています。
また、福祉避難所への避難が必要な方の情報を整理し、適切な支援を効率的に提供できる機能を発揮するための「災害時要配慮者支援センター(仮称)」の必要性を議論し、平成27年8月30日には福島県総合防災訓練を南相馬市で実施した際に「要配慮者避難救助訓練」を行い、そこで初めて「災害時要配慮者支援センター(仮称)」の立ち上げの訓練が実施されました。
東日本大震災から6年─南相馬市の障害者の今─
南相馬市にあるNPO法人さぽーとセンターぴあ「デイさぽーと ぴーなっつ」は、重度の障害者も多く利用している通所の生活介護事業所です。東日本大震災の当日は、車いすの方、経管栄養などの医療行為が必要な方、自閉症の方などの18人が日中活動を終えて片づけや掃除をしている時間に地震が発生しました。施設の前を通る車から「津波が来くっと」と教えられ、なんとかみんなを連れ出し、午後9時にようやく最後の利用者を家族のもとに送り届けました。ぴーなっつは、海岸から2.5㎞の距離があり、幸いにも津波は届きませんでしたが、ぴーなっつよりわずか500mほど海岸に近かった老人保健施設は津波に流されています。
その後の避難生活では、重度の障害者の多いぴーなっつの利用者は、避難所にはほとんど行っていませんでした。事業所は休止状態となり、自宅にひきこもるなど生活環境が激変していました。物資を届けに自宅へ行ってみると、心身の状態は著しく低下し、親御さんも限界な状況となっていました。
そうした状況をふまえ、ぴーなっつは、震災から1か月後の4月11日に事業所の再開にふみきりました。再開したとき、法人全体で震災前には21人いた職員は理事長を含めてわずか5人になっていました。
施設長の郡信子さんは、その後のことを次のように話してくれました。「震災から年月が経過し、利用者本人の機能低下や健康上の問題は大きくなっている。転々と避難した環境の変化の影響もある。ぴーなっつでは、放射能の影響がどのようにあるかがはっきりしなかったため、当初は震災前に行っていた散歩をとりやめていた。しかし、とりやめたことで機能低下がかえってすすみ、転んだり怪我をしたりするようになったので、3年目からは安全な場所を選んで散歩を再開した。また、医療機関などの社会資源が不足していたため、遠くまで受診するのが一日がかりとなり、その疲弊が家族、本人とも大きい。入院設備もなく、遠くへ入院してそのまま亡くなってしまう方もいた。仮設住宅に入った方もいるが、本人の問題でなくその環境になじめなかったりしている」と話します。また、郡さんは人材確保の厳しい状況も指摘します。「市内全体で若者が減っている。各施設は人手不足で自分たちの施設のことで手一杯の状態で、地域を支える力が弱くなっている」。
市内の事業所は、多くが震災から半年を経過した10月頃から再開しましたが、大きな法人ではむしろ再開に1~2年がかかりました。「例えば作業所としての仕事がなくても、このまま放っておけないという利用者と近い関係にある小さな事業所ほど、とにもかくにも再開していった」と郡さんはふり返ります。事業所は休止していても職員は利用者の家を訪問し、本人の状態の悪化や家族の疲弊を知り、命に関わる人からなんとか事業所で対応していこうとします。一方、作業所では震災直後になくなってしまった仕事も今は戻ってきていますが、一方で、人材確保が極めて難しい状況の中、福祉を全く学んだ経験のない人も採用せざるをえず、そうした体制で、かつ困難ケースを支えるため、要となる人の負担は非常に大きくなっています。
要配慮者が避難所に行けないことに伴うリスク
災害時、避難所に行けない、避難所から離れて自宅にいることは、物資や必要な情報が届かないという状況が生じます。
郡さんは「避難所に行けなかった人たちは、ストレスの多い環境で大声を出してしまうと迷惑がかかると思ったり、また、身体障害者の場合には、狭くてトイレに行くこともできないという環境上の問題があった。また、そもそも避難所に移動する手段がないため、行くことができなかった人もいる」と話します。
南相馬市社会福祉協議会地域福祉課長の佐藤清彦さんは、「避難所があることはわかっていても、普段から接点があるところでないと、なかなか行けない。たまたま社協の人を知っているから社協に来た人もいた。特に障害のある人は、知らない所へ行く不安から、普段から知っている人を頼りにする傾向がある。その時、そこで受け入れられるという柔軟さが必要になるだろう」と話します。
福祉避難所があり、そこがあらかじめわかっていて、要配慮者の避難の個別計画が日ごろからできていることの意味がそこにあります。
左:NPO法人さぽーとセンターぴあ 施設長 郡 信子さん
右:南相馬市社会福祉協議会 地域福祉課長 佐藤 清彦さん
また、避難所に行かず、自宅に要配慮者がとどまってしまう状況には迅速な動きが必要となってきます。震災当初、南相馬市に3か所あるうちの一つの鹿島区福祉サービスセンターにいた佐藤さんは、同センターが公的な避難所となり、社協としても災害ボランティアセンターを開設しましたが、避難所に来ないで自宅にとどまっている人には物資や情報が届かない状況がありました。そこで、震災から1週間ほどの3月中旬から、鹿島地区の要援護者名簿(当時)を社協が行政から提供してもらい、行政、社協、民生児童委員、地域包括支援センターの役割分担による安否確認の活動を始めました。まずは民生児童委員が名簿をもとに要援護者宅を訪問し、物資を届けながら安否を確認します。そこで心配ごとや困りごとがないかを把握し、健康面のことがあれば、地域包括支援センターを通じて保健師、看護師の医療チームにつなげます。また、生活面のことがあれば、民生児童委員、地域包括支援センターが訪問します。こうして把握した安否情報はリストにして、社協から行政に報告し毎日それを更新しました。佐藤さんは、「とにかく要援護者の安否が『わからない状況』を少なくしていった」と、その取組みの意義をふり返ります。
そして、震災後の平成25年度に改定された「南相馬市地域防災計画」では、「健康福祉部各班は被災した要配慮者に対する在宅福祉サービスの継続的な提供、デイサービス等の早期再開に努める」としています。また、同計画では「避難施設及び要配慮者用避難施設においてボランティア団体等と協力して必要なケアサービスを実施する」としています。
デイサポートぴーなっつでは、震災後1か月の早い時期に事業所の再開を少人数で始める際、社協の災害ボランティアセンターから紹介してもらったボランティアに厨房を助けてもらいました。郡さんと佐藤さんは、市内全域が混乱に陥った東日本大震災をふり返り、「事業所はそれぞれに孤立してしまい、事業所同士がお互いにつながった支援を行うことが極めて困難だった。その時に助けになったのは、個人と個人のつながり。だからこそ、顔の見える関係を常日ごろから作っていくことが大切になる」と指摘します。
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