熊本県熊本市/平成29年3月現在
学生にしかできないことと介助スタッフを支える必要性
ホールでは、在宅の障害者が20~25人ほど、要支援1、2の高齢者が20~30人ほどの合計56人の要配慮者が過ごしました。高齢者は大学のそばにある公営団地などの地域住民が避難してきた中にいた要支援者です。社会福祉学部の学生がいて、教員には医師や看護師の資格を持っている者もいるとはいえ、無理な受入れはできません。学園大学の体制では難しいレベルのケアを必要とする重度の方は、他の施設につないだ方もいました。
最初にスタートした介助体制は、3日間で身体的にも精神的にも限界を迎えました。吉村さんは「場所があるだけではできない。介助するスタッフを支えることが必要だ」と話します。特に夜の介助体制は重要でした。夜間の見守りはプロではない学生には任せませんでした。そうした中、ホールに避難していたヒューマンネットワーク熊本の障害当事者は、自分の介助者が介助者のいない人のフォローもするようにしてくれたのが助かりました。避難生活に自治を作り、避難している人たち自身も役割を担うことが避難生活の持続性のあるものにしてくれます。
吉村さんは、学生たちには「頑張らなくていい。とにかくここにいる避難者の人と話して。学生の君たちにできる一番大事なことは一緒に明るく笑うこと」と伝えました。そして、ホールの障害者、高齢者が孤食にならないよう、学生たちは一緒に食事をとり、3時にはおやつを一緒に食べるようにしました。
最初の2週間は鹿児島や大阪などの施設職員が自主的に応援に駆け付けて介助体制を支えてくれました。その後は、福祉施設の現場で活躍していた熊本学園大学の卒業生たちも応援に駆け付けてくれました。
また、熊本市は早い段階でヘルパーの訪問先が避難所であることも可能にしてくれました。そして、入浴は近くのスポーツジムが場所を貸してくれてそこへ連れていくことでできましたが、デイサービスが再開すると、避難所に迎えに来てくれることでデイサービスでの入浴が可能になりました。
こうした専門職による応援が支えになりましたが、一人ひとりに応じた支援をする上で、吉村さんは「ケアマネジャーがしっかりしていることが大切」と指摘します。今回の経験もふまえた今後のあり方として「本来であれば、ケアプランの中に避難計画が盛り込まれており、その中で、どこに避難する、避難したらどう支援してもらいたいということが明確になっていることが望ましいだろう」と指摘します。避難所で受け入れた要配慮者の情報が全くないこともありえます。目の前にある課題に対応しつつ、先行きを見据えた支援を行っていくためには、日ごろからの支援を災害時の日常と違う場所での支援に適切につなげることが重要になります。
また、避難所の雰囲気づくりには、学生や専門職だけでなく、地域からのボランティアも一役買ってくれました。大学の近所の女性グループが訪れて、「何か手伝えることはないか?」と申し出てくれました。そこでお願いしたのは「洗濯ボランティア」。洗濯物を取りに来て、自宅で洗濯してきれいになったものを届けてくれました。
このように、たくさんの人たちがそれぞれにそれぞれの力を発揮して、「避難している」という場の気分を落ち込ませない雰囲気を作ってくれました。こういった雰囲気そのものが何よりも障害者が安心していられる避難所のあり方の大きな一つの要素といえます。
得がたい成長を遂げた学生たち
最初にホールでの避難所運営に全力を尽くした学生たちの疲労がピークに達した4月20日。大学内のポータルサイトで学生たちに避難所支援への協力を呼びかけました。すると、それに応じて多くの学生ボランティアが集まってきました。
実は大学自身も大きく被災しています。研究室の半数は本震の影響で変形した扉が開けない状態でした。特に1~4号館は被害が大きく、立ち入り禁止の状態となりました。半年以上が経過した平成28年12月現在も被災した校舎はその爪痕を大きく残し、大学そのものの復旧もまだこれからというのが実情です。
学生たちも被災しました。自宅が全壊や半壊した学生は350人にのぼります。震災の翌日から避難所支援に携わってきていた学生も自らが被災して避難してきた学生が少なくありませんでした。大学では被災学生への28年度の授業料を免除するなどの支援を行っています。そうした状況にも関わらず、避難所支援のボランティアで活躍した学生は社会福祉学部に限らず、商学部、経済学部、外国語学部から学部や学年を超えて活動に参加していました。
広報誌『銀杏並木』6月号には、学生ボランティアとして参加した学生の言葉が紹介されています。
「震災後の朝から野球部のメンバーとボランティアに参加しました。ゴミの搬出、トイレ掃除、炊き出しなどを担当しました。避難者の方に『おいしい』と言われてうれしかったです。達成感があり、自分も被災者だということを忘れ、取り組めました」(経済学部 学生)、「本震後に開設されたしょうがい者専用の避難スペースで避難者の支援を行いました。トイレや起き上がり、車いすからの移乗を介助したり、話し相手になったり。時には支援している私が、人生の先輩から教えられました。たくさんの方と知り合い、つながりができたことで、私自身の視野が広がりました」(社会福祉学部 学生)。
「支える側と支えられる側」という関係ではない、「ともに支え合う」という福祉本来の姿が見られます。宮北さんが表現した「身近な福祉避難所」のもう一つの意味がそこに現れています。
そして、学生たちは、学内の避難所運営に限らず、その活動の場を地域に広げていきました。5月28日から学生たちが益城町保健福祉センターで週末限定の出張カフェをボランティアで開いています。また、5月には学生たちが「くまがく応援隊スマイリア」を結成し、毎週末に西原村や益城町などの被災地に赴き、子どもたちとふれあいながら、運動遊びを通じて災害ストレスを緩和して、子どもたちに笑顔を取り戻す活動を行っています。
5月10日に大学に届いたある小学校から届いた手紙。「避難所を開設して1週間。教職員の疲れが見え始めた頃、貴校の学生が駆けつけ、連日、早朝から夕暮れまで献身的に笑顔で仕事を引き受けてくれました」と書いてありました。
宮北さんは「学生たち自身が今回の経験を通じて大きく成長しているのを感じている。それは、彼らが卒業して社会に出てからの大きな力になると思っている」と話しました。
学生から「就職先を選ぶとき、収入が安定しているかではなく、どれだけ地域に根づいているかを見て選びたい」という言葉が出てくるようになりました。それは、経験を大事にする教育を積み重ね、そして実際に大きな経験をしたことでこそ出てきた言葉かもしれません。
大学では、学生たちの学びを広げていくべく、6月1日に学内にボランティアセンター準備室を開設しました。
避難生活の後の暮らしを見据えた帰宅支援
前震の発生から25日後の5月9日。大学は授業の再開へとこぎ着けました。附属高校にも多いときで100人を超える地域の避難者が身を寄せていましたが、附属高校・中学とも大学と同じ日に授業を再開しています。
ヒューマンネットワーク熊本の障害当事者たちは、授業の再開をめどに避難所から自宅へ帰りました。しかし、その後も14号館のホールにはまだ20人ほどの要配慮者が避難生活を続けていました。宮北さんは「私たちにできることがあるならば、授業の再開と避難所の運営を両立させなければならない。避難している皆さんの環境が整うまで。最後の一人まで続けるつもりだった」と話します。学生たちも授業の前に避難所を訪れて話し相手になったり、勉強とボランティアを両立しようとしていました。
この最後の一人までの責任を果たす「帰宅支援」。そのキーワードに吉村さんは、「コミュニケーションと信頼関係」を挙げます。
地震がなくても、もともとはギリギリの状態で在宅生活を送っていた要配慮者も少なくありません。そうした中で被災を経験し、安心できる雰囲気の避難所からまたもう一度在宅生活へ戻る気持ち。それをどう支えるかです。家の片づけさえできれば帰れる人。もとの家にはもう住めないので、新しい住まいを探さなければならない人。吉村さんたちは、家の片づけ、アパート探しの支援を丁寧に時間をかけながら行いました。避難所を出ていくことへの不安、引っ越すことの不安があります。その気持ちへの理解を吉村さんは次のように表現してくれました。「私自身、本震の後にぐちゃぐちゃに倒れた研究室を目の当たりにしたとき、『ああ、もういいか…』ってあきらめた気持ちになって呆然としました。でも、学生たちが明るく手伝ってくれて背中を押してくれた。それでまた頑張ろうという気持になりました。寄り添い助けてくれる人がいると先に進めます」。寄り添うということは、理解しようとすることなのかもしれません。
緊急時の支援から安心した暮らしを取り戻すまでの支援が「福祉」です。その「福祉」にできることは、つながりの薄かった人の不安を解消し、新しい環境につながりを作り、そして、人につないでいくこと。目の前にあることに向き合いながら、その先にある暮らしを支えるためには先行きを見据えることが災害時の福祉専門職の大きな役割なのかもしれません。
最後の一人の行き先が整い、45日間にわたる熊本学園独自の「身近な福祉避難所」は5月28日に閉じられました。そして、避難者と学生たちの交流は「時々ランチ」「まったりコーヒー飲んで話す」「誕生日会」「鍋会」など、日常の中で自然な形で今も続いています。
http://www.kumagaku.ac.jp/