(社福)広葉会 特別養護老人ホーム「リリー園」
地域の高齢者やその家族が安心して故郷で暮らし続けられるように、またあの場所で~避難指示を受けた特養の事業再開までの道のり~
掲載日:2018年6月29日
ブックレット番号:7 事例番号:76
福島県/平成30年3月現在

 

過酷な避難生活

一時避難先での7日間にわたる避難生活について、永山さんは「高齢者にとって劣悪な環境だった」と言います。リリー園から避難した利用者たちは、避難先の教室の硬く冷たい床の上で過ごさなければなりませんでした。また、避難所で出される食事はおにぎりが1日2食でした。普段トロミをつけたりキザミ食を食べている利用者におにぎりをそのまま提供するわけにはいきません。職員は自宅から鍋などの必要な道具を持ち寄り、食形態に配慮が必要な方にはおにぎりをおかゆにするなどして提供しました。

 

利用者のために駆けつけてくれた29名の職員は半分ずつ2つのグループに分かれました。各避難先では7、8名ずつ交代で利用者のケアにあたり、空いた時間に休息や睡眠をとるようにしました。

職員だけで人手が足りない時には、校内放送を活用して手伝ってほしいと呼びかけました。すると、避難している地域の方々が、それぞれ自分たちのできることを協力してくれました。永山さんは「多い時には利用者1名につき2名で対応することができた。地域の力は大きいと感じた」と言います。

また、地元の嘱託医が一緒に避難したことは、利用者にとっても職員にとっても安心でした。医師は2つの避難所を行き来し、具合の悪い利用者がいればいわき市の病院に紹介状を書いて受診できるようすすめました。永山さんは、「医師がそばにいるといないでは安心感が全然違った。一次避難の間に病状が悪化したり亡くなる利用者が出なくて本当によかった」と話します。

 

教室にストーブはありましたが、夜は特に冷え込みました。夕方になると、先生が各教室をまわり、ストーブに給油をしてくれました。

施設から持って行った2日分の備蓄食糧はすぐに底をつきました。利用者に食べさせたくても乳製品やフルーツはまず手に入りません。永山さんは避難所での生活をふり返り、「通信や衣食住をはじめ、普段やっている何気ないことすべてを災害に奪われた気がした。それが弱者にとってどれほど大変なことかは、テレビで報道される内容だけでは分からないだろう」と言います。

 

楢葉町に避難指示が出ているということは、施設も職員もみんなが避難しなければならないということです。そのような状況下で、もちろん全職員がすぐに施設に駆けつけることができるとは限りませんが、永山さんは当時ふと、「介護の仕事の使命感や倫理観とは何なんだろう…」と感じたと言います。

職員も被災者の一人でありそれぞれの生活や家族があります。それでも「利用者のために」と家族を他県などに避難させて自分だけ避難所に残って動いてくれる職員たちがいました。そんな職員の姿に、永山さんは「なんと言葉をかけたらよいか分からなかった」とふり返ります。そして、「家族とばらばらになっても使命感を持って利用者のそばに居続けてくれた職員がいてくれて本当にありがたかった」と感謝の想いを語ります。

 

一次避難は3月18日まで続きました。避難から7日経ち、やっと県と連絡が取れました。県の職員からは「埼玉県への避難」を提案されましたが、永山さんは利用者の健康リスクをふまえて県外への避難は厳しいと考え、いわき市の隣の石川郡にある老人保健施設とデイサービスなどを運営している医療法人へ避難することになりました。

 

自分の身に危険が迫ると、誰でもはじめは穏やかではいられません。職員の中には、「原発事故で自分の子どもに何かあったらどうするんだ!」と激しく感情をぶつけてくる人もいました。永山さんは、「あの状況でそのような気持ちになることはやむを得ないこと。私から『使命感に徹すべきだ』とは言えなかった」と言います。しかし、この職員は自分の意志をかため、奥さんと子どもを避難させた後に利用者のもとに戻ってきました。厳しい現実に対する想いを一度は吐き出すことも大切なのかもしれません。他にも「辞めます」と去って行った後に戻ってきて、また一緒に働くことになった職員がいました。永山さんは、「極端な言い方はしなかったが、避難指示を受けたとき、利用者の存在については職員にも話をした。『自分たちがやらなくちゃ』と残ってくれた職員の責任感はすばらしかったと思う」と言います。

 

取材先
名称
(社福)広葉会 特別養護老人ホーム「リリー園」
概要
(社福)広葉会 特別養護老人ホーム「リリー園」
http://lily-en.com
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