(社福)大島社会福祉協議会
大島土石流災害から5年 関係機関がチームで動くのはあたりまえに
掲載日:2018年9月28日
東京都大島町/平成30年9月現在

 

平成251016日に伊豆大島を通過した台風26号は、激しい大雨による甚大な土石流災害を大島の元町地区にもたらしました。大島の中でもごく一部の元町地区に集中した被害でありながら、36名が亡くなり、3名が現在も行方不明となった災害でした。

発災の翌々日、大島社会福祉協議会(以下、「大島社協」)は、災害ボランティアセンターを立ち上げるとともに、実施している在宅福祉サービスを通じて島民を全力で支えました。また、翌月の11月1日には避難所内に喫茶コーナー「あいべぇ」を開設し、12月からは『かわら版』の配布を始め、毎月1軒ずつ手渡しで届けて50号を数えました。翌年の26年度から3年間は大島社協に生活支援相談員が2名増配置されました。また、関係機関が定期的に集まる「被災者生活支援連絡会」は、当初、大島町役場の福祉けんこう課が事務局でしたが、28年3月からは大島社協がその事務局を担っています。

発災から5年の月日をふり返り、大島社協事務局長の藤田好造さんは、「災害前は、島内でも『社協』イコール『高齢者のための団体』と思われていたが、災害ボランティアセンターには島内からも多くの若い人たちが関わってくれた。それまでは若い人たちは『社協』が何か知らなかったと思う。発災後、『困りごと』に対して懸命に取組んでいるうちに、社協にできることが何かが見えるようになってきた」と話します。

 

 

避難所から仮設住宅、そして復興住宅へと歩んできた5年

災害発生から3か月後の26年1月25日。旧大島町立北の山小学校跡のグラウンドに建設された「応急仮設住宅」の入居が始まりました。今は仮設住宅がすでに撤去され、元のグラウンドに戻った場所に立ち、北の山地区の元民生児童委員の八木靖雄さんは当時の様子を語ってくれました。

「仮設住宅は、ここに2年間建っていた。入居していたのは24世帯。発災直後は町役場の2階の避難所のプライベートのない空間で過ごしていた方々には、仮設住宅ができ、ようやく落ち着くことができた場所だったと思う。もともと暮らしていた元町から離れた場所だったのは、落ち着きたいときに思い出さなくてすむ点では、むしろよかったのかもしれない」と話します。

 

八木さんにとっても、自分の担当エリアではない元町からの被災者を自分の担当エリアに仮設住宅ができたため受け入れるという経験でした。被災者にとって仮設住宅で過ごした2年間は、その先の暮らしの重い選択を判断しなければならない時期でもありました。だからこそ、落ち着いて過ごせることは大切でした。八木さんは「部屋にこもりがちな人もいたけれど、ここでできた新しい人間関係が今の復興住宅での暮らしに活きていった人もいる。しかし、屋根があり安心して過ごせるといっても、仮設住宅はやはり仮設住宅。トタン屋根の雨音で災害を思い出しおびえる子どももいた」と話します。

 

大島町北の山地区の元民生児童委員 八木靖雄さん

 

 

被災者は被災した元の地域に生活を再建できるとは限りません。平成28年に岡田地区と元町の家の上地区の2か所に「復興住宅」ができました。仮設住宅を出た被災者は、この2つの復興住宅に入った方もいれば、自ら新しい家を建て直した方もいます。復興住宅に入居した方々では、災害のあった元町から離れた「岡田地区」の復興住宅に若い世代、元町の「家の上地区」には高齢の世代の方たちが入りました。大島社協の藤田さんは「高齢者にとっては長年住み慣れた地元に戻りたい。病院や役場も元町にある」と説明します。

「家の上地区」の復興住宅に入居したAさん宅を訪問すると、ドアを開けて話してくれました。「元の家から近いからここにした。バリアフリーだし、とにかく住むところがあるのはありがたい」と話します。そして、「災害が起こった直後から『しょうがない…』とずっと思い続けている。帰らない身内を思うと、今が落ち着いたとは思えない」と、5年が経過しての今の気持ちを話してくれました。

 

 若い世代が入居した岡田地区の復興住宅                            元町の被災地のそばの家の上地区の復興住宅

 

 

取材先
名称
(社福)大島社会福祉協議会
概要
大島町
http://www.town.oshima.tokyo.jp/

(社福)大島社会福祉協議会
http://oshima.tokyoislands-shakyo.com/
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