ホテル椿園 清水 勝子さん
伝えていきたいこと-それは、地域で声をかけあい、支えあう大切さ
掲載日:2018年9月28日
東京都大島町/平成30年9月現在

 

「過去の噴火や地震などから先人たちが立て直し、今も自然や家族、地域の人を癒してきた大島」。そう話すのは元ホテル椿園、女将の清水勝子さんです。

清水さんは昭和61年に発生した三原山の噴火のときは旅館を手伝いつつ、長女を出産した年で、家事と仕事を両立していました。そして、平成25年の台風第26号の土砂災害により被災したのは、清水さんが結婚して30年目の年でした。

被災した本館を取り壊すとき、覚悟はできていたのに涙が出て来ました。それよりも寂しかったのは、ホテルとともにあった地域の人がいなくなってしまったこと。「自分だけが残っても・・・」。地域の亡くなった人のことを思う気持ちを「悔しくてしょうがない」と清水さんは話します。

 

椿園と地域の関わり

発災時は55人のお客様が泊まっていて、お客様同士で「2階に上がれ」と避難していたり、「助けてくれ」と土砂の中から近隣の人の声を聞いたお客様が助けに行ってくれたりしました。宿泊したお客様やスタッフ、家族は全員無事でしたが、ホテルの一階部分が土砂で埋まりました。清水さんは何をしていいのかわからず、前を向くことができなかったと当時を振り返ります。その後大島社協の災害ボランティアセンターから多い日には100~150名のボランティアが片づけを手伝いに来てくれました。「これはどうしたらいいの?」とひょんなタイミングで何気なく話しかけられることで、頭が動くようになり、自ずと体も動いていったと話します。東日本大震災のボランティア経験がある人からは「『落ち着いたときこそ、体調には気をつけて』と励まされた。地震や噴火は全員が被災者。でも今回の災害は元町地区に住む一部の島民。被災状況はそれぞれ異なっていても、共通していることがあると気づいた」と言います。

 

被災前に、囲碁大会やゼミ合宿、宴会等で椿園をご利用されたお客様から気遣いの連絡がありました。お客様が椿園の思い出を話すのを聞いて、改めて椿園の意義を気づかされました。また今まであって当たり前だと思っていた庭や樹木、家財道具がなくなって、初めてこれらは財産だったんだと気づいたと話します。清水さんは「本館の取り壊しは実感がわかなかった。しかし、それ以上に地域の人がいなくなってしまったことの方が寂しかった。災害を機に、声をかけあって支えあうことの大切さを感じた。周りの人がいたから地域って成り立つんだなと気づいた」と言います。椿園で使っていた食器は、ボランティアとともにきれいに洗い、地域で再利用してもらっています。

 

災害から半年後、「インフィオラータ」という催しがありました。そこで慰霊・感謝・復興への誓いの意味を込めて、花びらをちぎって、模様を作りました。終了後、花びらを土に返したら一気に緊張が解けて、そのときやっと自然と涙が出るようになりました。この出来事について、「きっとそれまでは目の前の日々に追われていたんだと思う」と当時を振り返ります。ずっと出なかった涙が出るまでに半年。人によって被災した後に初めて出る涙のタイミングはそれぞれのようでした。そして、いろんな人たちに背中を押されて、専門家ではないけれど被災者としてソフト面で何が必要なのかを自然と考えるようになりました。今は民生委員としても活動しています。

 

5年経ったいま

「私にとっては長い短いではなく重い5年間と感じています。今も復興途中だと思っている。『家を再建したからおしまい』とは思えない。気持ちの区切りはつきにくく、まだまだ終わらない気持ちが大きい」と清水さんは今の心境を語ります。続けて「私は生かされてしまった。最初は申し訳ない気持ちが強かった。それでも前を向く。前を向くからには、前に進んでいかないといけない。だから、実際に起きたことや自分の想いは伝えていきたい」と語り部活動への想いを話します。

また、「地域の中で守っていくべき、風習や地域のコミュニティ、土地や歴史、家族。災害によってこれらを失って、大切なものと気づいた。もっと早く気づいていれば、もっとやるべきことをやっていれば助かったかもしれない。今は自然を見てもくやしさを感じない。感じるのは何もできなかった人間に対する憎しみや後悔」と三原山を見ながら言います。

災害の爪痕を残した三原山を眺める清水さん

 

取材先
名称
ホテル椿園 清水 勝子さん
概要
ホテル椿園 
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