京都女子大学 久保若菜さん
大阪府北部地震の経験と自分なりに思う「福祉」
掲載日:2018年12月12日
大阪府/ 平成30年12月現在

久保 若菜さん

 

平成30年6月18日、月曜日。午前7時58分に発生し、最大震度6弱を観測した大阪府北部地震は、全壊家屋や半壊家屋が少なかったこともあり、その被害が「見えにくい」と言われています。大きな被害がなく、一見は日常を取り戻しているように見えても気持ちに不安を持っている。そんなことも「見えにくい」ということの一つです。

一方で、そうした経験を通じて人から優しくしてもらったことをうれしく感じ、そして、同じような経験をした人の気持ちが少しだけ理解できるようにもなれる。そんなこともあるのかもしれません。

ここでは、大阪府北部地震の震源近くに住む久保若菜さん(京都女子大学家政学部生活福祉学科4回生)にお話をうかがいました。

 

発災直後、足が震えながらも身体は勝手に動き…

-地震が起きたときは、久保さんはおうちにいたんですね?

最初に縦にドーンと来る揺れがありました。自宅にいた私は何も考えずに窓やドアを開けて、階段を降りて外に出る途中でも窓を開け続けていました。なぜ窓を開けたのかは自分でもわかりません。

私は両親と姉、弟の5人家族ですが、発災時、父はすでに出勤し、姉は勤め先の病院の夜勤の日だったので、夕方からの勤務に備えて家にいました。弟は小学校の登校時間で、すでに学校へ向かって近所の子と歩いていました。外に出てからは、走って弟たちを迎えに行き、家まで連れて帰りました。それから近所に住む祖母の家へ様子を見に行き、祖母も無事だとわかりました。その間もずっと足の震えが止まりません。足は震えるけれど、何かをやっていないと不安で身体が勝手に動いていました。

そして、母たちと家の中に入りました。家から逃げ出すときは周りが見えていなかったのですが、自分の部屋を見て思わず『これを片付けるの…』と思ってしまいました。引き出しは飛び出し、いろんなものが倒れて散乱していました。とにかく昼頃までは家の片付けに追われました。震源に近すぎたせいなのでしょうか、市内でも今もブルーシートのおうちが多いのですが、私の近所では家屋そのものには大きな損壊が少なかったようです。

 

-地震が起きた当日は、どんな気持ちですごしていました?

家に戻るまでは「どこかで大きな地震があったんだろう」と思っていましたが、テレビをつけてみると、水道管が破裂して噴水のようになっているのは、すぐ近所の知っている場所でした。JR高槻駅も天井の一部が落ちたそうです。何が起こっているかが徐々にわかると、「怖い」という気持ちが出てきました。

その「怖い」という気持ち。それは、やがて「不安」へと変わっていきました。阪神大震災はまだ生まれておらず、東日本大震災は中学生のときで、その頃は大変なことが起こっていると理解できても遠くのできごとの映像のようでした。そして、今回、自分が経験したことのない状況に身を置いたときに感じたのは、「先行きが見えない」という不安でした。「どうなるんだろう」という気持ちです。そんなときに感じたいのは、ちょっとした「希望」なんだろうなと思います。

 

復旧までの日々、特に一日の夕方からが長く感じる

-ライフラインはどんな状況でした?どんなことが大変でした?

幸いにも停電はしなかったので、スマホに充電することもでき、テレビから情報を得ることもできました。LINEは使えましたが、インターネットやメールは遅い状態でした。バイト先に電話してみると、「そちらの方面には回線をおつなぎできません」というアナウンス。電車はその日、関西の鉄道網が全線ストップしました。

水道は泥水が出た後、ちょろちょろと出たので急いで浴槽にためましたが、夕方には断水し、ガスは使えませんでした。夏へ近づく時期でしたが、お風呂に入ることはできず、水とガスがないと料理をすることができません。スーパーも当初、何もない状態でした。食べ物は、父が出勤先の大阪市内で買ってきてくれました。

家そのものは幸いに大丈夫だったので、避難所へは給水にだけ行きました。姉の勤め先の病院は、屋上の給水タンクから水を送るパイプが破裂して一部の病棟が水浸しになるなどの大きな被害があったそうです。

 

-どんな気持ちで、その日々を過ごしましたか?

水道とガスの供給が止まりましたが、最初は「すぐに復旧するだろう」と思いました。ガスの復旧には1週間ほどかかりました。その1週間が1か月ぐらいの長さに感じました。それは一日一日が長く感じたからです。特に夕方からが長く感じました。寝ているときもちょっとした音で目が覚めました。気象庁のホームページで地震があったかを確認しないと安心できません。昼間も学校で私が「今、揺れた」と言うと、周りの友だちが「大丈夫。揺れてへんから」と言ってくれました。そんな感覚は1か月半ほど続きました。弟も夜、何度も目を覚まし眠れていないようでしたが、「こわい」とは言わずにがまんしている。そんな様子でした。

                                          

-不安な気持ちだったと思いますが、学校に行ったんですね。

私は卒論の作成をすすめている時期でした。水道やガスが止まっていましたが、電車が動いてからは大学へ行き、介護実習室で卒論の実験を続けました。先生の厚意で入浴実習室のシャワーを使わせてもらえました。また、家になかったものを「持って帰りなさい」と渡してもらえました。先生や友人たちから優しくしてもらえたこと。それは、「先行きが見えない」からこその希望でした。

 

大丈夫?と尋ねるよりも具体的に聞いてあげたい

-身近な人が災害に遭ったとき、どんな風に声かけしたらよいかは迷うところです。実際に経験してみてどうでしたか?

地震の当日、私が震源近くに住んでいることを知っている人たちが「大丈夫?」と聞いてくれました。私は「命は無事で、ケガはしていない」という意味で「大丈夫」と答え続けました。少し経ってから遠くに住む先輩から聞かれたときには、少し落ち着きを取り戻していたからでしょうか、具体的にどんなことが大変か説明することができました。「大丈夫?」というのは、よく使われる声かけですが、こんなときは、具体的な尋ね方の方が答えやすいのかもしれません。

 

-同じような経験をした人には、どんな風に声をかけてあげたいですか?

大阪府北部地震から2か月ちょっと後のことです。9月6日、北海道胆振東部地震が起こりました。私は、自分が経験したことを思い出し、北海道の知人に「電気、ガスとかどう?」と具体的に尋ねました。すると、「電気がダメ」とわかり、『それならば、きっと情報が足りないにちがいない』と思い、被害のないこちらだから得られる情報をLINEやツイッターで伝えました。そのとき細切れに伝えてしまうと電気切れになるので、情報はまとめてから送るよう工夫しました。大阪府北部地震の経験があったから、不安な気持ちを想像することができました。自分が変われたんだなと思います。

 

取材先
名称
京都女子大学 久保若菜さん
概要
京都女子大学
http://www.kyoto-wu.ac.jp/
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