NPO法人 東京断酒新生会 事務局長 浅井 光代さん
私の経験を語ることが誰かの希望につながるかもしれない
掲載日:2024年10月15日
2024年10月号 くらし・今・ひと

NPO法人 東京断酒新生会 事務局長 浅井 光代さん

 

あらまし

  • アルコール依存症の家族として苦しんだ経験、また当事者として断酒の経験を持つ浅井光代さんにこれまでの人生やこれからについてお話を伺いました。

 

過酷な少女時代を経て、就職後すぐ結婚。幸せをつかんだはずなのに

私は神奈川県横浜市磯子区で生まれ、6歳の時、横浜で有名な、寿町と言うスラム街に移り住みました。父は神経質でしたが、優しく頭のいい人でした。けれども一旦お酒が入ると鬼のようになり、母に激しく暴言や暴力をふるい、母を助けようとする私や妹たちにまでかかってきて本当に恐ろしかったです。父がいつお酒を飲み始めるのか、また暴れ始めるのか毎日が不安で、学校にいても勉強が手につかなかったのを今でも覚えています。一番恥ずかしかったのは、生活保護を受給しながら、自分はほとんど働かず、母に働かせていたことです。


家が貧しかったので大学進学は諦め就職しました。そこで出会ったのが夫です。21歳で結婚。私にとっては玉の輿でした。嫁として夫の実家に入り専業主婦となり、幸せな未来を思い描いていました。4人の子宝にも恵まれ、働き者の夫との生活は傍から見たら何不自由ない暮らしだったと思います。でもそんな中、私はアルコールに依存していったのです。

 

隠れて飲酒することが習慣化やがて入院

「隠れ酒」というのは、お酒を飲みたい、でも飲んでいるところを家族に咎められたくない、だから隠れて飲むアルコール依存症の典型的な行動です。私は23歳から部屋のあちこちにお酒を隠して飲んでいました。


当時、私が堂々とお酒が飲めるのは土日の晩酌のみでコップに2杯ほど。もともとお酒が好きで量も飲める私には全く足りなかったというのが隠して飲む一因です。


でもそれだけではありません。アルコール依存症の場合「世代間連鎖」と言いますが、父のアルコール依存が知らずしらずのうちに私に影響を与えていました。家事や育児に追われる日々のストレスに加え、夫や姑との関係が上手くいかず悩んでいた私にとって、お酒は手軽に楽しめるありがたい嗜好品でした。でも楽しいのは束の間。あっという間に、そのお酒で病んでいきました。その後26年間、お酒に翻弄され、たくさんのものを失い、最終的にはアルコール依存症専門病院に入院しました。退院後は完全断酒を決意し、東京断酒新生会の新宿断酒会に入会しました。そうして現在14年になります。


断酒をしても夫や子どもたち、迷惑をかけた人々の信頼を取り戻すのに何年かかるか分かりません。断酒会の先輩方から「許してくれるまで待つしかない」と教わり、私は必死で断酒を続け、断酒会の例会周りをして5年ほど経った頃、周囲が許し始めてくれたような気がします。

 

断酒を決意し、新しい人生へ

私の人生はアルコール依存症だけではなく、さまざまな困難の連続でした。今はそんな自分の経験を生かし、新たな人生を歩み始め、東京断酒新生会の事務局長として活動しています。内容としては、主にアルコール専門病院やクリニックで、断酒体験談を通じたメッセージを伝えたり、メールでの酒害相談、啓蒙活動などです。聞いてくださる方の心に響くような、また希望が持てるような話を心がけ、大事なのは何度挫折しても立ち上がることだとお伝えしています。これからも一人でも多くのアルコールで悩んでいる方に、自助会につながることの大切さをお伝えしていければと思います。

取材先
名称
NPO法人 東京断酒新生会 事務局長 浅井 光代さん
概要
NPO法人 東京断酒新生会
https://www.tokyo-danshu.or.jp/
タグ
関連特設ページ