令和元年7月16日(火)、飯田橋セントラルプラザにて「3.11ユースダイアログ」が開催されました。東日本大震災当時、小学生や高校生だった若者の生の言葉で現地の様子を伝える活動などを行う東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN)が主催し、約50名が参加しました。
当日は、震災当時高校3年生で福島県双葉郡浪江町在住だった松﨑理沙さんと、当時小学6年生で宮城県石巻市に在住だった成沢新奈さんが自身の経験を振り返りながら語りました。
松﨑さんは震災当日友人と遊びに出かけており、すぐに家族と再会できなかったといいます。浪江町は福島第一原発事故による放射能汚染の恐れもあったことから、松﨑さん達家族は地元を離れることを決めました。松﨑さんは県外へ向かう道中、警察官が真っ白な防護服を着ていたことから「緊急事態が起きているんだな」と、どこか他人事のように思ったそうです。「当時は高校を卒業した直後で、専門学校に進路が決まっていたが、家族の負担になりたくない気持ちがあり、進学することに罪悪感があった。復興に前向きな人を見たくなくて、これまで震災関連のテレビは見ていない。被災者全員が復興に向かっているわけではなく、葛藤を抱えている人もいる」と震災から8年経つ今も抱える複雑な思いを語りました。
成沢さんは小学校にいた時に地震にあいました。当時小学生だった成沢さんは「津波がくる」と言っていた大人たちの声を聞き、ただならぬことが起きていると思いながらも、好奇心から窓の外を覗いたそうです。すると、学校の校門の方に黒いかたまりが見えて、それが津波だとわかると好奇心はすぐに恐怖に変わり、屋上へ急いで避難したといいます。その後は近くの大型スーパーや公民館、仮設住宅を転々として生活を送りました。避難所の衛生環境の悪さや、ストレスから食欲がなくなるなど、震災後の生活や自身の変化について語っていました。
それぞれのお話のあと、参加者からさまざまな質問が寄せられました。「被災経験を伝えるということを、ご自身の中ではどのように捉えているか」という質問に対して、松﨑さんは「今でもまだ自分の中で整理できていないが、この先の対策につながると良いのではないか、という思いで伝えている」と話していました。
成沢さんは現在、他県の大学に進学しています。そこでは、避難訓練はあくまで「訓練」としてしか捉えられておらず、同年代の災害への意識にギャップを感じていると話します。それでも「できる限り経験を話すことで、それを活かしてもらいたい」と思いを語ります。
松﨑さんは、周囲の人から東日本大震災について「あの時は大変だったね。今はもう大丈夫でしょう」と過去のことのように言われることもあるといいます。しかし、「あの日から生活が分断され、日常生活は当時で途切れたまま。まだ自分の中で整理しきれていない」と胸の内を語ります。「復興にはさまざまな人が尽力しているが、そんな人の中にも何でもない顔をしながら心の中でわだかまりを持っている人もいる。そうだよね、という姿勢で話を聞いてもらえると良いのではないか」と話します。成沢さんも「震災の経験は一生忘れられない、ついてまわる出来事。ただ、被災者の中には経験を忘れて整理する人もいれば、整理して伝える人もいる」と語ります。
東日本大震災から8年。南海トラフ地震や首都直下型地震の発生が予想される中、改めて被災した方の経験から学び、どのように活かしていくかを考えていくことが求められます。
[取材を終えて]
参加者からは「震災から8年経つ今も、葛藤を抱える若い世代がいることにショックを受けた」という声が聞かれました。 災害を経験した若い世代のリアルな声を聞く機会は、それほど多くないのかもしれません。 経験をつないでいくためにも、若い世代の被災者の声を伝え続けることの大切さを学ぶ、貴重な機会でした。 |
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