宮崎成悟さん
あらまし
- 株式会社Yancle(※1)代表取締役の宮崎成悟さんは、高校生の頃から難病を患う母の介護を行うヤングケアラーでした。当時の心境などについてお話しいただきました。
- (※1)株式会社Yancle https://yancle.com/
私は、ヤングケアラー・若者ケアラー(※2)の方を対象とした就職・転職サイトや、オンラインコミュニティを運営しています。起業しようと思った背景には、私自身が高校生の頃から現在まで、神経系の難病を患う母の介護を行っていることが影響しています。
(※2)家族等に対して無償でケアをする人のうち、一般社団法人日本ケアラー連盟では18歳未満を「ヤングケアラー」、18歳からおおむね30代までを「若者ケアラー」と定義している。
母のサポートは日常生活の一部
中学3年生の終わり頃くらいから、母の車の運転が不安定になるなど、少しずつ症状が現れるようになりました。私は、心配しつつも、買い物や病院への付き添いなどを行っていました。母のサポートをはじめ、家事等については家族間で自然と分担ができ、食事は姉がつくってくれていました。
高校2年生になる頃には、夜中に母を抱えてトイレに連れていくなど、身体介護が必要な場面が増え、母の隣で寝るようになりました。母の体調を理由に部活を休む時などは担任や顧問の先生に相談していましたが、友人には母のことを話したことはありませんでした。当時、母方の祖父母から感謝を伝えられたり、申し訳なさからか母から「ごめんね」と言われることもありましたが、私自身は、母のサポートをする生活が”当たり前”だと感じていたため、大変だと思ったことはありませんでした。今思えば、自分はいつ体調を崩してもおかしくない状況だっただろうと思います。自身にかかる身体や精神の負担に気づかず、目の前に迫る家族の介護に懸命に向き合うヤングケアラーは多いのではないでしょうか。
趣味が心の支えになっていた
高校3年生になり、大学進学を考える頃には、母の容態が悪化し、ほぼ寝たきり状態になりました。私は大学進学を諦め、母の介護に専念することにしました。それからは介護漬けの一年でしたが、家族の協力もあり、高校卒業から2年後に大学に進学することができました。大学でも友人に母について話したことはなく、飲み会の誘いがあっても「バイトで忙しい」と嘘をついて断ってきました。
次第に断り続けるのも億劫に感じ、友人と関わらなかった時期には、好きな小説を読むことで発散していました。そのようななか、共通の趣味をもつ友人からの誘いで、音楽好きが集まるクラブに足を運ぶようになりました。母が就寝している時間に参加でき、共通の趣味について語れる場は私にとって心の支えとなっていました。この頃から、以前に比べ、友人との関わりにも積極的になりました。
ヤングケアラーという言葉に救われた
大学卒業後は、医療機器メーカーに就職し、京都に赴任しましたが、母の病状がさらに悪化し、約3年で退職し、都内の実家に戻りました。転職後は、仕事をする傍らこれまでの経験を役立てたいと思い、難病患者を支援するNPO法人のボランティアに参加していました。そこで自分の生い立ちを話すと「宮崎さんはヤングケアラーだったんだね」と言われ、初めてヤングケアラーという言葉を知りました。調べてみるとまさに自分に当てはまり、すぐにヤングケアラーの専門家に会いに行きました。「ヤングケアラーには高い生活能力や責任感を身につけている方が多い」という話を聞き、これまでの自分が初めて肯定されたように感じ、感動しました。
過去の自分を誇りに思っている
母の介護を通して諦めたことは沢山ありますが、命と向き合うことや、優先順位をつけて行動する姿勢など、得たことも沢山あります。ですが、当時は目の前のことで精いっぱいで、人生の選択肢が狭められているように感じていました。当時の自分には「全てを投げ出して逃げるという方法もあったはず。それでも家族を放棄せず母の介護に向き合うという選択をしてきた。その行動に誇りを持っているよ」と伝えたいです。
現在運営しているオンラインコミュニティでは、掲示板方式で自由に情報交換できる場を作っています。家族の介護は長期間におよぶことが多いです。私自身も同じケアラーとしてこれからも一緒に頑張って行こうという気持ちです。
「幼少期の家族写真」
https://yancle-community.studio.site/