あらまし
- 東日本大震災の影響による原発事故で、福島県浪江町から避難し、現在は荒川区に暮らす安部拓志さんにお話をうかがいました。
定年退職後は、趣味のゴルフ三昧でした。友達と「ゴルフ会」を結成して会長をやっていました。反省会として友達とわいわい呑んだ頃の事が最近夢によく出てきます。夢を見ると「ゆんべ夢にでてきたから」と必ず友達に電話します。
この先どうするのか
東京に避難してきてから6年が経ちます。浪江町に設定されている居住制限区域・避難指示解除準備区域は3月末に解除されます。これまでも「帰る」「帰らない」と周りの話を聞く度に、この先どうするのか悩みました。
震災後1年は初めて“食事が喉を通らない”という経験をしました。何を食べても美味しさを感じられず7キロ痩せました。
震災の日は、海から4Km離れた自宅で妻とテレビを見ていました。這うように表に出ると家の鉄筋の柱が左右に45度曲がるように揺れていましたが、幸い家は潰れませんでした。防災無線が家まで届かず情報が全くなかったため、町の様子は翌日見に行こうとその日はいつも通り寝ました。
翌朝、家の前の国道が見たことがない位の渋滞でした。通りかかった友達に促され役場に行き、役場が用意したバスに乗りました。夕方には帰れるだろうとサンダル履きで荷物も持っていませんでしたが、その後発生した原発事故の影響で日に日に遠くに移動していきました。
二本松の廃校の体育館では、雪が降る中、暖房もなく毛布一枚で、“凍える”という言葉では表現しきれない状況に、みんなで肩を寄せ合って過ごしました。その後、どうやって居場所を突きとめたのか、東京の息子から連絡があり、迎えに行くとのことでした。団体行動だと思っていたので個人行動をとっていいのかわかりませんでした。役場の人に確認すると、「行ってもいい。転居先が決まったら必ず連絡が欲しい」とのことでした。3月16日には東京に移動し、兄弟や子どもの家を転々としました。
荒川区での暮らし
4月1日から荒川区の6畳1間の都営住宅が抽選で当たりました。自分の家以外での暮らしは初めてで、ストレスとはこういうことかと思いました。妻は、荒川シルバー大学に通いはじめ、趣味を活かして友達をつくっていました。妻の出生地は荒川区で、東京大空襲の際に家族で富岡町に疎開していたようです。戸籍を見て気づきました。今では、お世話になっている荒川区社協の方とも「鮭が故郷に戻るように荒川区にきたのかな」などと冗談も言えるようになってきました。
私は、長男ということもあり、代々続いてきた家を守りたいという気持ちが強かったです。しかし、4年経つ頃には覚悟を決めなければという想いがあり、郵便ポストに入るチラシを見ながら近隣の物件をみて回るようになり、今の家を決めました。相談せずに一人で家を決めたことにどんな反応をされるか正直心配でしたが、息子が「いいところじゃない」と言ってくれてホッとしました。
息子の家で一杯やりながら今後の話をしているとき、「親父とこんなにしゃべったのは初めてだ」と言われました。そして、お墓を買ったのでもしよかったら一緒に入らないかと聞かれました。大事なことなので、自分の思いを伝えました。先祖代々守って来た土地。私は浪江町のお墓に入りたいと伝えました。ただ、子どももゆくゆくは歳をとり長距離の移動が大変になります。まだ伝えていませんが、やはりこちらのお墓に入れてもらおうかと考えているところです。
みんなに会いたい
今の家は中古で購入し、28年1月に入居しました。不思議なことに、自分の家だと思うだけで精神的に少し楽になりました。妻も生活圏が変わらず友達つき合いは続いています。
もう一つ大きな出来事がありました。白内障の手術を受けましたが良い結果が出ず、昨秋、運転免許証を返納しました。就職や進学よりも嬉しかった免許証を手にした時のことを思い出すと、断腸の思いでの決断でした。免許証を返納するということは、生活するうえで車が欠かせない故郷での生活を諦めなければならなないことにもつながります。
残念なことに、震災後に亡くなった友達もいます。
さまざまな選択がある中で、浪江町に戻っても周りに友達がいないかもしれません。いわき市に住む親友とは、新緑の頃に会津若松で会おうと約束しています。新しく家を建てた親戚の家にも行きたいです。暖かくなったら、一日では回りきれないくらいの友達に会いに行きたいと思っています。
長男が発起人になり、2年前には金婚式を祝ってもらいました。親孝行を実感できること。親としてこんなに嬉しいことはありません。震災をきっかけに、家族、兄弟、夫婦が分裂してしまったという話も耳にします。歳をとってからとんでもない経験をしたと思っていますが、親子、家族の絆が深まったとも思います。