あらまし
- 福島第一原子力発電所の爆発事故により、幼いころから60年以上暮らしてきた双葉町を離れ、東京都東村山市で家族と避難生活を続ける守家規(もりいえただす)さんにお話を伺いました。
東村山市に身を置くまで
私は2011年10月から、東村山市に母、息子夫婦、孫2人の4世代で暮らしています。
震災直後はまず、双葉町の隣にある浪江町に自主避難しました。しかし、原発事故もあったので、そこからすぐ二本松市に避難しました。息子の嫁は浪江町で介護の仕事をしていて、被爆の検査をするため会津若松市にいたので、3月16日に会津若松市に移りました。ここで息子から「子どものことも考えて、双葉町の家を捨てると決めた」と言われました。息子は仕事関係の繋がりで、原発や放射能の情報が入ってくるため、すぐに決断したようです。
そして3月19日、全員で東京都東久留米市に移りました。しかし、移ったアパートは狭かったため、1度息子家族と分かれて母とともに神奈川県海老名市に住む長年の無線仲間のもとで2か月程暮らしました。その後、福島県の北塩原村に避難している娘家族が私たちを心配して「仕事の間に子どもたちの面倒を見てほしい」と言ってきてくれたので、娘家族のもとで暮らしました。しかし、その時母は95歳で、夏は涼しく快適でも、冬は雪深くとても寒い北塩原村での生活には健康面での心配がありました。「10月から東村山市の公団住宅に住めることになった」と息子から連絡をもらい、現在の家で暮らすことに決めました。
被災者交流会での出会い
全く知らない土地である東村山市で暮らし始めて、最初に考えたのは「この場所で友達をつくらなければ」ということです。私は昔から料理が好きだったので、市の施設でやっている男の料理教室やパンづくり教室などに行って仲間を作ろうと思いました。しかし、その場で話すだけの浅い付き合いだけならできるけれど、心を許して話せる関係はなかなかできませんでした。
そんな中、東村山市社会福祉協議会が被災者の交流会を行うと聞いて、申し込みに行きました。そこで、当時ボランティアセンター長をしていた下村さんに出会い、とても親身になって、交流会に参加した人同士を繋いでくれたり、双葉町からの避難者の情報を得ようとしてくれたりしました。本当に感謝しています。今では交流会で繋がった方と下村さんで定期的に飲みに行くなどして話すことが私の楽しみです。また、交流会には東村山市に長く住んでいる双葉町出身の方も参加してくれました。その方が偶然にも私が小学1~3年生の時に担任をしてくれた先生の息子さんだったということがわかり、とても嬉しかったです。
皆さんが尽力してくれたおかげで、心を許して話すことのできる友達ができました。ですから私も社協の活動には協力したいと思い、できるだけ参加するようにしています。
今後も東村山市で
現在、孫2人は野球チームに入って頑張っています。野球がきっかけになってできたこちらの仲間たちと良い関係を築いているようです。息子夫婦も毎週末の応援で地域に繋がりができてきたようですし、今後も東村山市で暮らしていこうと考えています。会津若松で息子が家を捨てる決意をした時に「父さんたちは福島に残ってもいいんだよ」と言われましたが、私も今はこのまま東村山市で暮らしていこうと思っています。そう思えるのは、ここで心を許して話せる友達ができたことが大きいと思います。
私はいくつになっても、友達というのは本当に大切にしなければならないと思っています。だから、この場所で友達が必要だと考えて行動しました。孫や息子たちにとってもこれは同じだと思うので、ここで仲間ができていくのはとても良いことだと思っています。