あらまし
- 平成30年6月18日に発生した「大阪府北部地震」は、都市部の通勤・通学の時間帯に起きた地震でした。また、被害が点在したことから支援を必要とするニーズが「見えにくかった」と言われています。
そして、6月28日から7月8日にかけて発生した「平成30年7月豪雨」は、近年多発する豪雨災害が広範囲に起こり、高齢者福祉施設でも32施設691人の利用者が避難するなど、施設そのものの被災が多く見られた災害でした。
本号では、この2つの災害特性の中で高齢者、障害者、子どもたちを支えた5つの福祉の姿を紹介します。
早朝保育の被災、翌日以降の保育は? ー摂津峡認定こども園・浦堂認定こども園
平成30年6月18日(月)の「大阪府北部地震」の発生時刻は、午前7時58分でした。大阪府高槻市にある摂津峡認定こども園では、在園児115人のうち38人の子どもがすでに登園していました。園長の大谷智光さんは「もう30分早ければ、早朝保育の職員4人だけで対応しなければならなかった」とふり返ります。また、同じ法人の運営する浦堂認定こども園でも、184人のうち93人が登園していました。園長の濱崎格さんは「落ち着いて園庭へ避難できたが、その後を訓練したことはなかった」と話します。
目視で園舎の安全を確認でき、市の北部にあった両園のライフラインも無事でした。そして、午前9時2分、市から「全園が休園し、子どもたちを帰してください」と通達があり、一斉メールで保護者へ連絡しました。地震の影響で電車が運休していたため、1時間半かけて迎えに来た親もいました。そこに「この目で子どもの無事を確認したい」という強い想いが感じられました。
大谷さんと濱崎さんは、翌日以降の保育について話し合い、できるだけ家庭での保育をお願いしながら運営を再開することにしました。翌日19日、摂津峡認定こども園は5人、浦堂認定こども園は10人の子どもを預かりました。震源に近い南部ではガスと水道が1週間ほど止まる被害でした。市内で翌日に運営を再開できた民間保育園は、38園のうち6園。公立保育園は古い建物も多く、安全確認や危険箇所の修繕のため、3日間休園しました。
地震発生の翌日、職員が普段より早く出勤してきました。「家にいると怖い」とのこと。濱崎さんは『そうか。親も不安に違いない』と考えました。乳幼児は、不安を大人の様子から感じてしまいます。そこで、在園児や地域の家庭に「給食を食べに来ませんか?」と呼びかけたところ、20人ほどが訪れました。大谷さんは「賑やかにしゃべっとったなあ」と笑顔でふり返ります。話す場を作ることは、子どものためにも必要な親へのケアです。さらに、発災後最初の週末、NPOの協力を得て、「プレーパーク」を催しました。濱崎さんは「親から少し離れ、自由に過ごせるようにした。子どもにとって遊びは大切だが、大変な状況ではそれを遠慮してしまう」と指摘します。それでも1か月ほど過ぎてから、「頭が痛い」と職員室に来る園児もいました。子どもなりに蓄積するものがあったようでした。
また、大谷さんは「休園した他園の園児を預かったりしたが、他園が何に困っていたのか後になってわかった」と話します。困りごとのタイムリーな共有も今後の課題です。
右から
(社福)照治福祉会理事長・摂津峡認定こども園 園長 大谷 智光さん
浦堂認定こども園 園長 濱崎 格さん
気になる高齢者には、「不安ですよね」と声かけ ー郡家地域包括支援センター
発災後、郡家地域包括支援センターには高槻市の長寿介護課から安否確認の依頼があり、6人の職員が手分けして介護サービス利用者、独居高齢者、日中独居の高齢者世帯を優先に安否を確認しました。電話がつながらなかったり、耳が聞こえにくい高齢者に対しては自宅を訪問しました。そして、気になる利用者は2〜3日後にもう一度、様子の確認を行いました。郡家地域包括支援センター管理者の德留規子さんは、訪問したときのことを次のように話します。「安否確認すると、『電話くれてありがとう』と安心する様子がうかがえた。発災当日は『大丈夫』と言っていても、落ち着いた頃に『どうですか?』と訪問すると、『実は…』と困っていることが出てきた。『仏壇が倒れて…』という訴えは多く、『不安ですよね』と声をかけると、『夜が不安で…』と話されることが多かった」。
介護サービスについては、エリア内の介護サービス事業所側から随時連絡が入りました。ガスが停止して入浴できずに休止したデイサービスもありました。自宅が危険な方にはショートステイを延長したり、小規模多機能型の機能を使った緊急ショートステイの受入れも行いました。
センターの担当する地域は古い家屋も多く、屋根や土塀などに損壊が多く見られます。独居高齢者のことを遠方に住む家族が「何かあったとき一人では心配…」とする一方、本人は『住み慣れた町に住み続けたい』と揺れる気持ちもうかがえます。半年が経過し、修繕をあきらめた賃貸物件が解体され、入居していた高齢者の引っ越しなどの相談も入るようになりました。
一方、今回の経験から、高齢者自身の自助意識が高まったようです。地震後に相次いだ台風では、近隣同士で誘い合って避難所へ避難する高齢者の姿が増えました。「避難所へ来ると、みんながいるから安心だ」という声も聞かれます。
そして、郡家地域包括支援センターの母体施設である特養「高槻荘」施設長の羽田浩朗さんは、「もっと地域のためにできたことはなかったかと考えさせられる。高槻荘が地域の中にあることの意義を改めて意識した」と話します。
郡家地域包括支援センター 管理者 德留 規子さん
「見えにくいニーズ」を支援につなぐ ー高槻市社会福祉協議会
「大阪府北部地震」では、高槻市で2人が亡くなり、家屋は「全壊」が11件、「大規模半壊」が2件、「半壊」が237件で、「一部損壊」は2万797件にのぼりました。高槻市社協事務局参事の国広奈穂子さんは「被害が広範囲に点在したことで、被害全体が『見えにくい』災害だった」とふり返ります。
6月20日、高槻市社協は災害ボランティアセンターを開設しましたが、当初、社協のコミュニティソーシャルワーカーなどを通じてあがってきたニーズは5件程度でした。社協では、小学校区を単位に37の「地区福祉委員会」で日頃から小地域ネットワーク活動に取組んでいました。地震発生後の安否確認を通じて住民同士が助け合い、そこで対応できたこともあったようです。しかし、それでも潜在化するニーズがあるはずでした。国広さんは「支援活動に実績のある団体が助けてくれた。学生ボランティアたちが一軒一軒を訪問し、声かけをしながら温かみのあるチラシを渡す『負けてたまるか大作戦』を展開してくれた」と説明します。そんな取組みも行いながら、7月28日に災害ボランティアセンターを閉所するまでに666件のニーズに対応できました。その間、NPOや府内社協の応援を得ながら、正規職員を災害支援活動に投入し、通常業務を非常勤職員でこなしました。
地域福祉課長の山田真司さんは、見えにくかったニーズの実際を「例えば、家具が倒れたのは普段はあまり出入りしない部屋。しかし、それが目に入ると、地震を思い出してしまう。そんな不安な気持ちのまま過ごしていた独居高齢者がいた」と話します。9月には台風が直撃して被害が広がりました。そして、発災から半年が経過しても屋根にブルーシートを張った家は多く見られます。業者が足りず、一部損壊の家屋の修繕は年単位で順番待ちとなっています。
高槻市社協では「民間社会福祉施設連絡会」の運営を支援しています。発災後、被害の少なかった保育園が「何かできないか」と協力を申し出てくれ、市外から来て地理には疎い災害ボランティアを活動先に送り届けてくれたこともありました。地域福祉課主査の小島博之さんは「施設同士の相互支援まではできなかった。しかし、発災後は災害が共通の課題に上がるようになった」と話します。また、ボランティア・市民活動センターの小島英子さんも「災害を機に市内の団体同士、つながりが増えた」と話します。
左から
高槻市社会福祉協議会 地域福祉課 主査 小島 博之さん
事務局参事 国広 奈穂子さん
地域福祉課 課長 山田 真司さん
ボランティア・市民活動センター 小島 英子さん
山下 秀子さん
http://settsukyo.shojifukushikai.jp/
郡家地域包括支援センター
http://www.osj.or.jp/takatsuki/zaitakus/index6.html
高槻市社会福祉協議会
http://ta-city-shakyo.com/
(社福)幸風会
https://ja-jp.facebook.com/fukusi.kouraku
(社福)みどりの町
https://www.midorinomachi.or.jp/