清水裕香里さん(NPO法人Jin事務局長)
荒れ果てた浪江町を緑にぬり変える
掲載日:2017年12月14日
ブックレット番号:- 事例番号:52
福島県浪江町/平成28年11月現在

 

 

 

私は毎朝6時半に二本松市にある仮設住宅を出ます。午前中は車で1時間半ほどの南相馬市にある障害者福祉事業所の畑で野菜づくりをし、午後はさらに車で40分ほどの双葉郡にある浪江町サラダ農園で花の栽培やうさぎの世話をします。畑に出るときは、赤いトラクターが私のパートナーです。

 

 

音も色もないふるさと

平成23年3月11日に起きた東日本大震災。震度6強の揺れと津波で浪江町沿岸部は壊滅的な被害を受け、その後の原発事故により、浪江は全町民が避難しなければなりませんでした。

はじめは「浪江に戻りたい」と言っていた町民も、避難解除の目途が立たないまま2年、3年と時間が経つにつれ、「今さら帰れない」という思いが強くなるとともに、避難先の生活に慣れ、仕事や生活の基盤ができてきて、「帰らない」ことを選ぶ人も増えていきました。

 

6千本のチューリップ

震災から2年後の平成25年4月に、サラダ農園のある地区は午前9時から午後4時の間、立ち入りができるようになりました。約2年もの間、手つかずの状態だった浪江町は、音もなければ色もありませんでした。

 

その年、野菜の出荷が叶わず、何もなくなった農園に「花をたくさん植えたらきれいかな」という思いつきから、私たちはサラダ農園に6,600本のチューリップの球根を植えました。

 

チューリップは、私の大好きな花です。”さいた、さいた…“の歌の通り、赤、白、黄色の順に美しく花開いてくれました。花が咲いたときはもちろん、震災前に農園で飼っていたうさぎが災害に負けず、奇跡的に命をつないで子どもを産み増えていったことも、私たちをとても元気づけてくれました。

 

それから毎年、私たちはヒマワリやトルコギキョウなどたくさんの花を植えました。家の片づけなどで町に戻っていた方々が美しく咲いた花を見かけて、声をかけてくれたり、喜んでくれたりします。丁寧に育てた花が咲き、その花を誰かが見てくれる、また、トルコギキョウの出荷という産業を生み出す可能性などが見えてきて、花づくりは私たちの希望になりました。

 

 

私が浪江町に帰る理由

平成29年4月に浪江町は避難が解除され、人が住めるようになる予定です。その時期が来たら浪江町に帰るつもりです。もし、あの日の津波でサラダ農園が流され、なくなってしまっていたら、この町へ戻ることを諦めていたかもしれません。だからこそ、サラダ農園の立ち上げの時から、私がこの場所でやってきたことや、続けてきた努力をなくすことはできないと思いました。そして今は、何もしなければなくなってしまうかもしれない町が再生し発展していくためのきっかけづくりができればと思っています。

 

そのために、この町に日本にここにしかない「1番」をつくることが目標です。1番をとれば、注目され、人が集まってくるかもしれないと思うと、何かをやらずにはいられません。だから私は、これからもこの場所にいろいろな色の花を植え、人をたくさん呼びたいと思っています。好きな花は人それぞれですから、いろいろな花を植えるつもりです。

 

私は今、この町を花の町にし、たくさんの美しい花で「帰ってくる人」も「帰らない人」も含めたさまざまな人を迎えたいという気持ちでいます。

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清水裕香里さん(NPO法人Jin事務局長)
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