利用者や職員の変化
悠楽に戻るまでの避難生活を続ける利用者や、それを支える職員にはどのような影響があったのでしょうか。岸本さんは「生活環境が変化したことなどにより、利用者の筋力低下が目立つようになった」と言います。また、以前に比べると少し怒りっぽくなった方もいて、ストレスの影響かも知れないと考えています。浴槽は後楽と共有しているため、それまで週2回だった入浴は、入浴1回、清拭1回に変更しました。またトイレもタイミングによっては順番待ちになってしまいます。「こういった日常生活に関する変化は、ちょっとした変化のようでいて、お年寄りにとってはとても大きい」と指摘します。
また職員に対しては、「地に足が着いていない感じがする」と言います。悠楽では入居3ユニットとショートステイ1ユニットでやっていましたが、避難生活を送っている間はみんな一緒になっています。しかし、どうしてもこれまでのユニットで担当していた利用者への関わりが多くなってしまう面があります。ユニットが違うと職員間交流も少なくなりがちですが、ここでは全員一丸となって対応する必要があり、その課題をどう乗り越えるか頭を悩ませているといいます。ケアの質の面でも、今までできていたことができなくなっていることがあり、災害さえなければ……と悔しい思いをすることもあるそうです。
平成30年12月現在、クレールエステート悠楽の施設の復旧は着実にすすみ、発災から約5か月後の12月10日にはデイサービスが再開しました。そして31年1月17日には特養とショートステイが再開し、1月19日に職員と利用者、家族で「お引越し」をする予定になっています。
後楽における避難者の受け入れ
悠楽から移送された利用者は、緊急招集された職員が中心となって後楽の2階ホールへ誘導されました。7月7日の0時頃には地域住民が高台にある施設周辺へ車で避難してきました。後楽は一般避難所の指定はされていませんでしたが、施設内へ避難する人も出てきたほか、駐車場で車中泊をする人もいました。法人本部長・統括施設長の矢吹和弘さんは「当日はとにかくバタバタしていたので、悠楽の屋上に職員が避難していることまでは把握していたが、詳細はまったくわからなかった」と言います。そして、「後楽は電気・ガス・水道のライフラインは生きていたが、電波が通じにくい状況だった。『とにかくみんなで協力するしかない。一所懸命やろう』とその場にいる職員に声をかけた」と言います。
施設を頼ってきた一般避難者は受付をしたうえで、デイルームに案内しました。テレビやラジオで情報収集をしようにも不確定な情報ばかりで、7日の昼頃に町内が水浸しであることを知ったといいます。それでもテレビを見ている時間もなく、後楽の入居者や悠楽の避難者への食事提供や、一般避難者への炊き出しなどを行っていました。食事提供数は一般避難者も含め240食になりました。後楽はもともと指定避難所ではなく、また市の真備支所も水没して物資も届かなかったことなどから、一般避難者の方々は2~3日で指定避難所等へ移動してもらうようお願いしました。
被災後の法人としての対応
前述の通り、法人職員150人中、約50人が何らかの被害を受けました。法人としては、自宅1階が浸水した職員には2週間、完全に水没してしまった職員には3週間の休暇を与えることとし、一定の基準に基づいて見舞金を支給しました。また被災した職員の自宅の片付けを手伝う人的支援や、被災した職員が復職するまでの間、欠員分を後楽と悠楽で補い合うなどの対応を行いました。
多くの職員が被災し慣れない対応を迫られる中、矢吹さんは職員を沸き立たせることを意識しながら、施設や職員の状況を把握してしっかり指示を出すことを心がけました。自身は、発災後の約1か月間は施設の駐車場で車中泊を続け、何かあったらすぐ駆けつけられるようにしていました。そして1か月程経った時点で、「被災気分はやめよう。ユニフォームを着てしっかりやっていこう!」とあえて声をかけ、職員のメンタルヘルスにも配慮しながら、法人全体で2か月後、3か月後の日常を取り戻していくこととしました。
矢吹さんは「今回の経験を経て、職員は強いと思った。緊急招集にも多くの職員が応じてくれた。また人手が足りない時期には、真備町以外に住んでいる職員がとてもがんばってくれた」と振り返ります。
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