(社福)東京都福祉事業協会 母子生活支援施設「ハイツ尾竹」 支援員 鈴木 綾子さん
あらまし
- 母子生活支援施設で2つの職種を経験した鈴木綾子さんのおしごとの魅力をお伝えします。
ジレンマを抱えながらも利用者に寄り添ってきた
大学を卒業後、非常勤として勤務した後、正規職員となり、支援員から心理職、そして子どもの病気をきっかけにまた支援員に戻るなど、雇用形態や職種、勤務時間等が変わりながらも、ずっとこのハイツ尾竹で働いてきました。こうして続けてこられたのは、家族と職場の理解と協力があったからこそ。本当に感謝しています。
心理職を務めていた時は、利用者へのカウンセリングだけでなく、職員と利用者の間に立つ緩衝材になれるよう努力していました。心理職は施設に1人しかいなかったため、常に施設内にアンテナを張りめぐらせ、利用者はもちろん職員のメンタルヘルスにも気をつけていました。日中から夜遅くまで働いていたので、利用者には「子どものためにも、帰りが遅くなる仕事に就いてはだめだよ」と言いながら、自分は深夜に帰宅して子どもの寝顔を眺める日々が続きました。土日も仕事で遊んであげられなかったのはつらかったです。そのジレンマで、時には利用者に対して「あなたは子どもと一緒にいられるのに」と羨ましく思ったこともあります。それでも、傷ついた母子の回復を精神面から手助けできる、やりがいのある仕事でした。
今年から支援員になったのは、子どもの病気がきっかけです。仕事を辞めることも考えましたが、上司が一緒になって続ける方法を考えてくれて、日中働いて土日も休みやすい支援員に職種を変え、勤め続けています。支援員は職員が複数いるので、「1人じゃない」という安心感があります。ただ、1人の利用者と1対1で向き合い、生活や感情の深い部分まで立ち入る仕事なので、一歩離れて考えていた心理職の時とは違うスキルが求められていると感じています。
教科書と現場は違う世界だった
非常勤の支援員として勤め始めた最初の1年間は怒涛の日々でした。母子生活支援施設について教科書以上の知識がない中、利用者の不安ややり場のない怒りが、暴力や虐待と呼ばれる行為につながってしまうことに衝撃を受けました。授業で習ったマニュアル的な対応は通じないと身をもって知り、支援の難しさや責任を感じました。特に1人で宿直をしている時は、暴力的な行為や争いの場面に直面するのではと気が気ではなかったです。
しかし今振り返ってみると、度重なる緊急事態に対して自分で考え、行動し、反省することを繰り返すなかで、自信や度胸がついたのだと思います。また、数々の失敗を周囲の職員が責めたりせず、「仕方ないなあ」と見守ってくれ、挑戦の機会を与え続けてくれたことも、やる気を持ち続けられた理由です。
母子が立ち直っていく姿に「人ってすごいな」
長く続けていると、立場や職種だけでなく、自分のもののとらえ方や考え方の変化を感じる場面も出てきます。たとえば自分に子どもができるまでは、仕事をする上で「子ども目線」で考えることが多く、お母さんの出来ないことに目が行きがちでした。しかし、自分自身が母親になってからは「お母さんも大変なんだ」ということが身に染みてわかって、「お母さんの目線」も得ることができました。
また、多くの母子と関わるなかで、子どもは親の状態に強く影響を受けること、母子という単位で支援する意義を実感しています。お母さんが支援を通じて精神的に落ち着くと、自然と子どもの問題行動も少なくなるのです。不安定な状態だった母子がさまざまな支援や経験を通じて立ち直っていく姿には、「人ってすごいな」と感動します。その過程に関われることは、この仕事の大きなやりがいです。
プロフィール
- 鈴木綾子さん
ハイツ尾竹に非常勤職員として入職し、支援員を務める。平成18年から正規職員となり、心理職を務めた後、28年4月から現職。
http://www.tfjk.or.jp/