滝沢 淨さん
農学部を卒業した私が最初に勤めたのは、ニワトリの育種改良研究所でした。そこで働きながら、いつか『人を相手にした仕事をしてみたいな』と思っていました。そんな折、ちょうど福祉施設で、農業を担当していた人が通勤寮創設のため異動するので後任を探している、というお話をいただきました。それが昭和40年の春です。千葉県にあった「日向弘済学園」で働き始めたのは、そんなきっかけです。
できることを増やせばよい
まだ「福祉」というものが十分に知られていないような時代でした。そんな中での初めての福祉の世界。障がいのある利用者に対して暗いイメージを想像して行ったら、意外にも楽しそうにやっているじゃないですか。『これは、一緒にやれそうだな』と思いました。何よりも学園の職員たちに「これから自分たちで障がい者福祉をつくっていくぞ」という熱意がありました。それは「(弱い者を)守る」というよりも「できることをふくらませていく」といった姿勢でした。
職員には生活担当と作業担当がいて、農作業を担当した私は、重度の利用者たちと園芸作業をしたり、牛や豚を育てました。生活担当が不在のときには、夜間も彼らとともに過ごしました。最初のうち、私自身も利用者の「できないこと」に目が行ってしまいました。でも、畑仕事で「自分にもできる」ことで彼らが頑張るのをみるうち、いつしか彼らが「活躍できるようになる」ことをサポートするのが面白くなりました。
そして、彼らは実際に力をつけて通勤寮の支援を受けチョークを作る川崎市内の工場等へ就職していきました。こうした経験を通じて、私は「施設というものは、社会とつながるための準備をするものだ。社会に参加するにはできることを増やせばよい。そうか。それが福祉なんだ」と、彼らの自信を深める支援の基本を学びました。
ボランティアさんは通訳
そんな福祉との出会いを原点に、昭和62年、東京都西多摩郡日の出町に新しくできた知的障害者入所施設「日の出太陽の家」(以下、「太陽の家」)の施設長に誘われました。ここは、8年間の地元からの反対運動が起きたものの、設立者とボランテイアさんの熱心な働きかけで「(施設があっても)いいんじゃないか」と、早くに切り替えていただき開所できた都内施設です。
ところで、人々のもつ「障がい者観」。それは気がつかないうちにすりこまれているものかもしれません。一般の人に障がいのある人の努力や成長、夢など正しい情報が届いていないのも大きな要因です。知らないから不安なのです。囲い込んで「障がいのある人」を見えなくする壁。そんな壁をつくってはいけません。
むしろ、「『福祉施設は、ノーマライゼーション社会をつくる先頭にいるんだ』という認識を持とう」と、初代理事長は力説しました。知的障がいのある人たちは、自ら訴えて理解してもらうことが上手くありません。だからこそ、私たち施設職員は彼らとともに社会に向けて歩をすすめるその先頭にいるべきでしょう。
幸いにも太陽の家のそばには「武家屋敷」という古民家がありました。そこを拠点にして、社会貢献の一つとして太陽の家ではボランティアさんを積極的に受け入れました。その際、大事にしたのは「ボランティアさんは『人手』ではなく、『理解者』である」という視点。ボランティアさんは施設と社会との間の通訳になるはずだと考えました。
そして、施設でのボランティアに参加した人がそこで考えたこと、職場の空気、法人のミッションを広く地域に伝えていってくれています。今で言う「地域公益活動」をしていました。
種をまき、丁寧に育む
最近は中学生が職場体験、ボランティア体験で福祉施設に来ていますね。こういった中学生を受け入れる施設職員には、『その中学生が体験して感じたことを家族、友人に伝えて地域の福祉力をアップしてくれるはずだ』という期待を持って接してほしいと思います。
畑でまいた種を丁寧に育み慈しみ続けることで、ようやく実りが得られます。それは福祉でも同じです。一つひとつの作業には、なかなか目に見えた成果は感じにくいものです。長い時間をかけてじわじわと理解者を増やしていくしかありません。でも、その先にある実りはきっと豊かなものとなるはずです。
プロフィール
- (社福)太陽福祉協会 若駒の里 顧問 滝沢 淨さん
- 信州大学農学部畜産学科を卒業後、家禽育種の研究所を経て、昭和40年に財団法人鉄道弘済会の日向弘済学園に入社。昭和62年から社会福祉法人太陽福祉協会の日の出太陽の家の施設長に就任し、平成20年3月に同職を退任。以降、東社協地域移行コーディネーター、太陽の家ボランティアセンター所長などを歴任し、平成27年に太陽福祉協会若駒の里顧問に就任し、現在に至る。
http://www.taiyonoie.org/