プロフォトグラファー 菅 洋介さん
人情が好きで生きた父
掲載日:2018年9月26日
2018年9月号 くらし・今・ひと

管 洋介さん

 

あらまし

  • 福祉広報の表紙写真撮影者の管洋介さんに、父であり写真家の故管洋志さんについて寄稿いただきました。

 

 

1945年、生まれは博多。寿賀旅館の次男坊として7月は博多祇園山笠 「櫛田流」で賑わう通りに父管洋志は育った。1960年、戦後復興で活気を取り戻した中学時代、家の近所の火事の騒ぎに家を飛び出した。熱く燃える炎の偉容な力強さと崩れ落ちる木造の家屋。旅館の部屋からカメラを持ち出し、見物人を掻き分けて夢中でシャッターを切った。翌日の新聞にはその写真が紙面を飾っていた。父がカメラマンをめざすきっかけとなった出来事であった。

〝山笠のぼせ〟の男達に囲まれて育った父は、祭りの熱狂に渦巻く姿を被写体に撮り続けていると、いつしか〝ハレとケ〟、彼らの祭りと日常に垣間みる精神世界に惹かれていき、それを自身の写真表現にしていくことを決めた。以降〝人間写真〟をカメラ片手に追い続けた…。

日本が高度経済成長期にあった頃、父はアジアを旅して廻る写真家として活動した。上半身裸で漁をするオトコ達、市場での喧噪の中で働く女・子ども、そして日常の中に自然と取り入れられた神を祀る仕草や時間…。全てが生活の営みでありアジアの人々がその風土で生きる美しさがあった。社会・文化にアミニズムが共存していることにどこか生まれ育った故郷が重なった。

アジアの一国である日本もまた行脚して写真を撮り歩いた。書庫に保存されている膨大なフィルムには、日本各地、小さな島々、集落までその風土に生きる姿が美しく丁寧に記録されていた。そしてその一枚一枚の写真の人の表情に、己の姿が写し込まれていた。

 

私は父管洋志の最後のアシスタントとして7年間取材に同行した。撮影の現場では、お互いに構えず会話を広げながら、決して焦らず、人の心根に触れたときにいつの間にかレンズを向けての会話を成立させていた。福祉広報は管洋志が約20年間、今も父の作品を表紙に採用していただいている。父は東社協と三菱商事株式会社の社会貢献事業である「母と子の自然教室」がきっかけで出会った。テーマは〝人がつないでいく心の輪〟。

近年、福祉広報の表紙写真は四季折々の表情をみせる、日本の風土に生きる人々の姿を毎月掲載してきた。また、子ども達をテーマにした表紙も多く、その無邪気で溌剌とした素顔を毎月1か月間、広報誌の顔として読者が暖かい気持ちになれるような写真を選んできた。

どの時代の表紙を振り返っても、めぐり逢った人との写真に、ひとつ声かけてレンズを向けた会話が浮かんでくる。家庭での会話は決して上手くなかったが、ひとたびカメラを持つと湧いてくる人への好奇心。下見を終えて宿にもどり夜な夜なメモを取っていた手帳には、翌日撮影する予定の絵の鉛筆画が35ミリフィルムのフレーム枠の構図の中に書き込まれていた。また、晩年は新しい感性を持った若い世代を写真の世界へ導いていく企画にも数多く携わった。父の中に流れる時間・人生のすべてが写真への情熱に注がれていた。

 

久々に取材に訪れた特別養護老人ホーム「フローラ石神井公園」。かつて私も父とともに訪れた施設であった。施設長の兒玉氏の案内はどこか名調子でリズムが心地良い。前職が観光業であると伺い納得した。彼の気立ての良い明るさに、施設のスタッフも入居している高齢者も、どこかあか抜けて賑やかにみえた。施設長の人柄に意気投合した父は、母校である日本大学芸術学部写真学科の学生達を連れてこの施設を再び訪れた。

入居する高齢者の生活の表情を若者達の賑やかなリズムで写真に切り取らせた。撮る側・撮られる側、お互いの感情に素直に、しわの深さ一本一本まで写し込まれた見事な写真は出来上がった。

数十枚の当時撮影された学生達の写真をテーブルの上に並べると、その日の賑やかな情景が浮かんで来た。その中に生前の父とおばあちゃんが屈託のない笑顔をみせる一枚に目が留った。おばあちゃんとの会話、人情が好きで生きた父のありのままの姿が目の前に広がり、写真を手に施設長とともに当時の父の様子を想い出し懐かしんだ。

 

 

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               (2018年9月号 TOPICS)

 

 

プロフィール

  • 管 洋介さん
  • 1980年生まれ。
    プロフォトグラファー。
    父であり写真家であった管洋志を師事。
    現在はスポーツやドキュメント、料理などの撮影を主体として活躍している。
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