熊本県熊本市/平成29年3月現在
熊本地震の前から学生たちは、たくさんの学びをしていた
社会福祉学部講師の吉村千恵さんは、もともと東南アジアや障害学を専門分野として研究していました。2003年にはタイの農村で障害者と出会い、2010~2011年のタイの大洪水の際に現地で目にしたのは、取り残された障害者たちでした。避難先の環境になじむことができず、避難せずに厳しい環境で過ごす障害者たちと関わってきました。また、前述のとおり、吉村さん自身が熊本学園大学の学生だった頃から、地元の障害者当事者団体のヒューマンネットワーク熊本とのつながりがありました。
そうした中、吉村さんは「当事者に寄り添う福祉」を大事にしたいと考えるようになり、熊本地震が発生する前から社会福祉学部の学生たちにもその視点で、さまざまな授業を展開していました。
熊本地震の前年度には、学内で学生たちに「なんかあったら、ここ、避難所になるけんね」と教えて学内に避難所をつくるシミュレーションを実施していました。4人1班で炊き出し訓練を行い、イメージできない300人分のハヤシライスや炊き込みご飯を作る(またはメニューを考えるところから作る)経験をさせたり、高齢者や障害者を受け入れる際に介護実習室にある機械浴やポータブルトイレの機材を使うシミュレーションをしていました。この訓練は、熊本地震で実際に障害者や高齢者のための避難スペースを設営する際、学生たちがスムーズに動くことができたことにつながっています。
熊本学園大学社会福祉学部講師 吉村千恵さん
また、土砂災害のあった阿蘇地域で学生たちが地域の高齢者と一緒に避難訓練に参加し、高齢者の個別避難支援計画を一緒に作るワークショップも実施しています。「一人じゃ逃げられない」、「あの牛を連れて行かないと避難できない」、「位牌をもって行きたい」。そういった一人ひとりの想いを避難計画の備考欄に書き込む作業を通じて、学生たちは「避難」生活にある当事者の想いを学んでいました。
そして、これは震災後の取組みになりますが、平成28年度には、熊本学園大学に通う障害のある学生たち自身の避難計画の作成にも取組みました。当事者学生ごとに班分けをして、本人も一緒に何度も話し合い、話し合った方法を実験し、試行錯誤を重ねながら、本人と他の学生、学校側が納得のいく避難方法を作っていきました。
吉村さんは「最近の特別支援学校を卒業してきている学生は、バリアフリーな生活にむしろ慣れていて、自分をどう抱えてもらったらよいかを本人もわからなかったりする。本人にとっては非常時に誰にどうしてもらいたいかを理解するものであり、他の学生にとっては当事者学生の一人ひとりにいろんな障害があり本人に合った避難方法を考える必要性を学ぶ機会になった」と話します。
このような基盤を背景として、熊本学園大学は熊本地震の前震からの45日間、どのような支援活動をしてきたのでしょうか。
最大200人が14号館へ避難し一夜を過ごした前震
平成28年4月14日の午後9時26分。前震(M6.5)の直後から、熊本学園大学の多目的グラウンドには、100人を超える地域住民や学生たちが集まりました。そこで、余震が続いて自宅に帰るのが不安な避難者たちを安全な建物内への移動することを大学側は検討しました。大学の体育館は地震によりアルミ製の窓枠がゆがみ(一部は窓枠ごと屋外に落下)、ガラスが散乱しており、そこは危険と判断し、最も新しい14号館のトイレと教室を開放しました。最大で200人がそこへ避難しました。ちょうど学内にいた吉村さんは研究室に戻ってみると、本棚の本が半分ぐらい落下している状態でした。大学には、市役所からのアルファ化米の炊き出しと水の支給がありました。
この前震では、翌朝には熊本市内は落ち着きを取り戻し、避難者は10人ほどが残り、他の方々は帰宅しました。そして、社会福祉学部では同15日の午前中に震度7を観測した益城町を数人の教員が訪問し、その報告を受け、16日から学生ボランティアとともに支援を行うための検討を始めました。しかし、その状況はその後、一変することになります…。
本震の16日午後。14号館ホールに福祉避難所が誕生
4月16日の午前1時25分。未明の時間に襲ったM7.3の地震が再び震度7を観測。これが平成28年熊本地震の本震でした。地震直後から避難者が14号館の廊下や軒下に集まり、14号館の4つの教室を開放しました。この本震以降のピーク時には大学内に750人が避難していました。
自宅にいた吉村さんは、激しい揺れとともに電気や水が突然切れて、暗闇で食器が割れる音と物が落ちる音が響きました。避難用具一式を持って歩いて家を出たところ、重度障害(CP)のある学生からLINEで助けを求める連絡が吉村さんにありました。この学生はアパートでひとり暮らしをしています。ヘルパーが帰った後で車いすに移ることもできず、アパートに閉じ込められている状況でした。車で学生のアパートに駆け付けた吉村さんは、エレベーターが使えなくなっている中、階段を使用して学生を避難させ、必要なものを運び出しました。指定されていた避難所はトイレの設備なども十分ではなく、通い慣れている大学に避難した方がむしろよいのではということになり、また、吉村さん自身も大学で災害対応に動かなければならなかったので、大学へ避難することにしました。それは午前2時30分頃のことでした。
朝になると、14号館には介助が必要な高齢者や障害者が増加していきました。大学とつながりのあったヒューマンネットワーク熊本の車いすユーザーたちも熊本市内に余震が続き、多くの地域で断水などの被害が出る中で、大学へ避難していました。しかし、多くの地域住民が避難したため、教室はいっぱいになりました。車いすでは15時間も座りっぱなしで横になることもできず、水も飲めないような状態になりました。吉村さんは「これは、やばい」と危機感を感じました。まだ開放していない14号館の記念ホールを障害者たちのために開放することがその危機を脱する突破口でした。16日の午後2時、宮北さんは学長たちと話し合い、その結果、大学はこのホールの開放にふみきりました。
このホールにその時点で避難者がいなかったのは、天井から照明が吊るされているため危険と市が判断したためでした。そこで、この照明を下におろし、体育館からマットを運び、吉村さんはLINEで呼びかけた学生たちと3時間かけてホールに障害者、高齢者が過ごせる避難スペースを設営しました。これまでの学びを活かすべく、学生たちにどう設営すればよいかも考えさせました。下した照明にシーツをかけて男性と女性の避難スペースを仕切るアイディアも学生が出してくれました。ベッドは中に物資が入った段ボールを使って設営しました。それは高さがオーダーメイドなベッドになりました。
ホールにできあがった避難スペース。それは、障害の有無に関わらず地域住民と同じ空間で過ごす「インクルーシブ」な避難所とまでは言えませんが、14号館という空間の中で教室に地域住民、ホールに障害者たちが避難してともに避難生活を送るという意味で、宮北さんは「いわゆる身近な福祉避難所がそこにできた」と、この状態を表現します。
そして、大学の授業を再開した5月9日を挟み、最初の4月14日から数えると5月28日までの45日間にわたる大学独自の避難所は教員と卒業生・在学生の学生が一丸となって、また、当事者団体であるヒューマンネットワーク熊本、応援に駆け付けた専門職、地域のボランティアの協力を得て運営しました。その軌跡と想いは、学内の広報誌『銀杏並木』の6月号でも詳細が綴られています。
熊本学園大学広報誌『銀杏並木』6 月号
( 平成2 8 年6 月2 4 日発行)
特集熊本地震
http://www.kumagaku.ac.jp/