福島県浪江町/平成30年3月現在
目標に向かう気持ちは、何があってもぶれない
こうした取組みを始めたJinでしたが、長引く避難生活とともに、あれほどまでに浪江町へ帰りたがっていた高齢者が避難先の新しい生活が落ち着きつつあるとともに、「浪江町には戻らない」という人も出てきました。川村さんは「戻る、戻らない。どちらが正しい訳ではない。ならば、それも応援したい」と考えました。サポートセンターの支援でも大切にしてきたのは、人と人のつながりを支えることでした。新しい暮らしの新しいつながりができるのであれば、そこがその人にとっての地域といえるのかもしれません。
一方、浪江町での復興の道をすすむJinの取組みは、決して順風満帆ではありませんでした。「浪江町サラダ農園」では、ニワトリは卵に放射性物質をためないことが分かっているので早々に浪江町産の卵の出荷に成功し、育てた野菜もいよいよ出荷できるまでに至りました。ところが、その希望を絶つようにある日、突然に野菜から検出された数字。原因は後に特定できてきましたが、1年目の野菜づくりを断念せざるを得ませんでした。「このときだけは、さすがに心が折れそうになった」と、川村さん。そこで、失意の気持ちから6,600個のチューリップの球根を植えたところ、花を咲かせたとき、家の片付けに浪江町に戻ってきた人々がサラダ農園で足を止めるようになりました。「色もなければ、音もなかった」、その大地に色とりどりの花を咲かせたチューリップがふるさとに景色を作りました。
震災から4年を迎えた浪江町サラダ農園の2年目、川村さんたちは、野菜づくりとともに、花づくりに取組み始め、見事なトルコギキョウを咲かせることに成功しました。清水さんは、「好きな色は人それぞれだから、私は、ここにいろんな色の花を咲かせて、人を呼びたい」と話します。
いろとりどりのトルコギキョウ
そして、震災から5年目を迎えた浪江町サラダ農園の3年目。日中だけしか世話できない限られた条件のもとで工夫を重ね、丁寧に栽培したトルコギキョウが順調に育った夏の終わりのことでした。平成27年関東・東北豪雨災害が発生し、夜半すぎから激しく降る雨によって農園のそばにある川の水があふれ、せっかくのトルコギキョウが台無しになってしまいました。しかしながら、清水さんは「みんなから『気の毒に・・・』と言われるんですが、むしろ、『よし!やってやろう!』って気持ちなんですよね」と、この時の心境を話します。また、この水害によって震災から2年間を浪江町で生き延びた一羽のうさぎから水害前に300羽まで殖えていたうさぎたちの命も救うことができませんでした。今、浪江町サラダ農園にいるうさぎたちは、この水害の前に小屋から脱走して生き残ったうさぎ、そして、うさぎのことを心配してくれた児童と「もう一度、殖やすからね」と約束して飼い始めたうさぎの子どもたちです。農園を訪れる若い世代が目を輝かせてくれるうさぎたち。川村さんは、「うさぎは守り神みたいなものですね」と話します。
川村さんたちは、震災に負けることなく、2年間立ち入ることができなかった浪江町で一羽のうさぎが生き延び、さらに、そのうさぎたちが命をつないでゆく姿を見たとき、「僕たちも先祖から受け継いだこの土地を責任をもって次の世代にバトンタッチしたい」と感じました。「地域」というものは、今を生きる世代のためだけのものではなく、常に、次なる世代にとって暮らしやすい「地域」であり続けなければなりません。
生まれて数か月のうさぎの“なみちゃん”
浪江町サラダ農園