大島町子ども家庭支援センター
大島土石流災害で被災した子どもたち
掲載日:2018年9月28日
東京都大島町/平成30年9月現在

 

親を亡くしたり、家を失った子どもたち

ひろば事業を休止せざるを得なかったセンターですが、発災後はとにかく次から次へと出てくる業務に追われる連続でした。最初に大変だったこと。それは、被災した子どもが島外の病院に緊急搬送されたので、その病院のMSWに電話してみると、受け入れた病院側も「大島から来た子どもだ」ということと、名前のみかろうじてわかっているといった状況でした。そうした中、子どもの親族との連絡や付き添い、保険証の再発行の手続きなど、想定することもできない業務が数多く発生しました。

被災した子どもの名簿は教育委員会の方で整理してくれました。センターでは、その名簿の中からも両親が亡くなった家庭の子どもなど、非常に大変な状況にあるケースに特化して支援に当たりました。限られた人員の中で避難所や自宅を訪問し、不安を抱えている保護者やこどもたちの相談に乗りました。東京都が派遣した臨床心理などが心のケアを行うチームがはありましたが、それ以外にも、家の片づけから両親を亡くした子どもの未成年後見の手続きまで、さまざまに必要となる支援がありました。

 

被災した子どもに対する関わりは専門機関からアドバイスを受けました。その一つは、PTSD。星さんは「災害直後よりも、やはり1年、2年という時間が経ってから『夜眠れない』『雨が怖い』という子どもが出てきた。これは小学生に限ったことではなく、中学生や高校生も。外では元気にふるまえるのに、家では泣いてしまうということもあった」と話します。そういったときには、関係機関と連携して、子どもや家族を適切なカウンセリングにつなげました。専門家からは「PTSDが後になってから起こるだろう」というアドバイスを受けていたので、それは心の正常な反応と考え、適切にケアすることにつなげることに努めました。星さんは「これは早期に介入して子どもからそういう反応を無理にひきださず、子どもから言い出さない限りは普通に関わり続けることが大切」と話します。

 

また、災害後にセンターとして新たに取組んだことは、相談専用電話を24時間対応にしたことでした。被災した遺児を祖父母が育てなければならなくなり、祖父母の具合が悪くなったり、夜に子ども自身にメンタルな不調が現れたりすることに対応する必要がありました。

ずっと泣かなかった子どもが何か月も経って、初めて涙を流すこともありました。また、大人が自分のために奔走しているのをわかっているからこそ、大人の前では自分の気持ちにふたをしている、そんな子どもなりの気持ちに改めて気づかされることもありました。子どもが夕方から姿を見せなくなったので、大人たちが探してみると、自分の家があった場所で一人泣いていました。

 

5年前に大きな被災のあった道

 

 

災害発生後の大変な状況を子どもたちなりに

また、発災後、島内では野球やサッカーなど放課後や土日の子どもたちの活動は休止となり、学芸会など秋に予定されていた行事を縮小した学校や保育園もありました。

元町地区にあるつばき小学校のグラウンドにはがれきが積まれ、自衛隊の車が行きかう中で子どもたちは過ごしていました。

そうした中、例えば、大島高校の野球部の部員たち。彼らは、スコップを手にボランティア活動に参加していました。星さんと大島町子ども家庭支援センターのワーカーマネージャーの山本千尋さん、保育士の浜部美保さんは、そういった子どもたちの姿をふり返り、「大変な状況になっていることを感じつつ、目の前にある自分にできることをやって役に立つことで自分を保っていたのだろう」と話します。

 

左:大島町子ども家庭支援センター ワーカーマネージャー 山本 千尋さん

右:大島町子ども家庭支援センター 保育士 浜部 美保さん

中央:大島町福祉健康課被災者支援係 星 朗子さん

 

取材先
名称
大島町子ども家庭支援センター
概要
大島町子ども家庭支援センター
http://town.oshima.tokyo.jp/soshiki/kodomo-c/kateishien.html
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