避難から約18時間で全員が救出
さらに明るくなってくると、上空を消防や報道のヘリコプターが旋回し始めました。上からテレビカメラで撮られているのがわかるので、漂流物で囲った仮設トイレを作るなどの対応が必要でした。そのうちに自衛隊や消防の救助ボートがやってくるようになり助けを求めましたが、「大丈夫ですか? 後で来ますから」と、どのボートもどこかへ行ってしまいました。自前のジェットスキーやゴムボートで救助活動を始める住民の姿も見えました。
岸本さんは「その時には携帯電話の電池も切れており、真備町全体がどうなっているのかまったくわからなかった。目に入る情報がすべて。民家の屋根に避難している人も見えるだけで相当数いたので、自分たちの救助はまだまだ先になると思った」といいます。14時~15時頃には、民家から救出された人の一部が消防のボートで悠楽の屋上に運ばれるようになり、救助者を引き上げる際には職員も手を貸しました。救助者の中にはデイサービスの利用者もいたので、担当職員と抱き合ってお互いの無事を確認し涙を流す場面もありました。悠楽の屋上には最大で60人程度が避難していました。避難する際に持ってきた水やお菓子は職員間で少しずつ分け合っていましたが、救助された人たちにもふるまいました。「少しずつだったけれど、それが地域の人たちに対して、その時点で私たちができることだった」と岸本さんは振り返ります。
悠楽屋上の避難者は自衛隊のボートで陸に運ばれることになりました。まず地域住民、次に職員の順で運び出され、岸本さんは19時30分頃、最後に救出されました。「運ばれる途中、見慣れた町が茶色い水に浸かっていた。映画か何かではないかと思うほど現実感がなかった」と言います。そして「陸に着いたとき、『やっと戻ってこられた……』と力が抜けた。屋上に避難しているとき、一瞬、『これで死ぬのかな……』と思ったこともあった」と振り返ります。
救助された岸本さんは、陸に上がった場所から200メートル程離れた職員宅に向かい、車で後楽に送ってもらいました。そこで初めて悠楽の利用者の状況を確認しホッとすると同時に、今後やらなくてはならないさまざまなことを考えて目の前が真っ暗になったといいます。そのまま業務に就くことも考えましたが、本部長から帰宅するよう諭され、22時に職場を後にしました。家族への連絡がまったくできなかったので、テレビで水没した施設の様子を目にしていた岡山市内に住む家族は、岸本さんが帰宅するまで無事だったことを知らなかったそうです。
長期化する避難生活に向け、環境を整える
7月8日以降、後楽に一時避難している高齢者の行き先をどうするか早急に検討しました。悠楽は完全水没しているので、建物が無事でも復旧にはかなりの時間を要することが考えられました。後楽には大きなホールがあるので、そこを利用すれば36人が生活するスペースを確保できそうでした。後楽にとどまることができれば、利用者だけでなく職員も分散させずに済みますし、職員の雇用を確保するうえでもメリットがあります。もちろん、よりよい環境で生活できる他の施設へ行く選択肢もありました。
そこでケアマネジャーと相談員から利用者の家族に対して、他の施設を紹介できることを説明したうえで、他施設へ移るか後楽に残るかを利用者と家族に判断してもらうことにしました。手分けをして連絡し、ショートステイ利用者の大半は帰宅することになりました。入居者の家族からは、早めの避難により多数の命が救われたことに対する感謝の言葉があり、「いずれ悠楽に戻れるなら、スタッフも今までと変わらないですよね? それなら残ります」と29人全員が残ることになりました。岸本さんは「こういった言葉を利用者や家族からいただいたことは、これまで私たちが取組んできたことが評価されてのこと。この言葉が前を向く力になった。とてもつらい状況だが、当面のプライバシーの確保やあたたかい食事の用意など、知恵と工夫で乗り越えていこうという機運が一気に高まった」と言います。
マットレスをベッドに変更するため業者に連絡したところ、「こういうときだから」と数日で30台用意してくれました。悠楽で実施していたユニットケアはホールではできないので、まず女性エリアと男性エリアに分ける仕切りを設置しました。
さらに隣のベッドに手が届くような状態を解消するため、テレビで見たダンボールベッドを提供している業者に相談したところ、すぐに担当者が来て現場確認をしてくれました。その後、材料と職人を連れて再度訪れ、数時間で仕切りを設置してくれました。利用者からは「前よりようなったわ」と喜んでもらえました。それでもまだ殺風景なので少しでも生活感を出そうと、部屋の表札を折り紙で加工するなど、忙しい中でも職員が工夫してくれました。
http://www.kouraku.or.jp/