岩手県遠野市/平成25年3月現在
社会福祉法人とおの松寿会が運営する特別養護老人ホーム「遠野長寿の郷」と養護老人ホーム「長寿の森 吉祥園」では、震災後、遠野市や岩手県社会福祉協議会等との連携により、沿岸地域の高齢者福祉施設に入所する方々に対する様々な支援を実施してきました。
発災直後の遠野長寿の郷の状況
発災直後は、遠野長寿の郷(以下、長寿の郷)のある遠野市でも停電となりました。ラジオによる音声での情報しか入ってこず、沿岸域の様子は全くわからない状況が続きました。余震が多く、揺れも強かったので、安全のため利用者全員を1階の交流ホールに集めました。震災から3日目、ようやく電気が復旧し、夜も安全を確保しながら事業が行えるようになりました。
老人保健施設「松原苑」(大船渡市)の利用者の受入れ
「当初、高校の体育館に大船渡市にある松原苑の利用者が一時避難する予定だったんです。3月上旬の寒い時期です。これでは命に関わるということで、長寿の郷で受け入れることに決めました」。こう話すのは、長寿の郷施設長の松田拓矢さん。とにかく場所だけならすぐに貸せる、と受入れを即断しました。余震も落ち着いてきたこともあり、ちょうど空いていた2 階に松原苑の利用者94人、職員17 人を受け入れました。岩手県社会福祉協議会から内陸の施設宛に沿岸地域の利用者の受入れ協力の依頼文がきていたこともありました。
避難にあたっては、長寿の郷の職員だけでなく、遠野市や遠野市社会福祉協議会の職員、ボランティアの高校生たちも加わって2階に車椅子の利用者を上げていきました。
避難を強いられることとなった松原苑は、震災直後、建物の窓ガラスが全て割れてしまうほどの被害となりました。松原苑に避難を求めてやってきた大勢の地域住民が外にテントを建て、そこでなんとか過ごしている状況でした。3 月13 日までそういう状況で切り抜け、ようやく14 日に長寿の郷に避難できました。200人いた利用者の約半数が長寿の郷へ、また、半分は分散して様々な施設に避難することになりましたが、その避難中に17 人の方が亡くなられました。
長寿の郷に着いてからは、避難者の介護は、一緒に避難してきた松原苑の職員が行いました。また、食事は遠野市から提供されましたが、固形食や流動食などは対応できないため、一緒に避難してきた職員が作ることで対応しました。また、トラックに敷き詰めてきたマットレスを布団がわりにしました。
松原苑の職員は1日勤務ではなく、2日働いて交替する勤務体制をとっていましたが、職員の中にも被災している方が多数いたため、出勤できない職員もいました。
松原苑は他にも系列施設があったため、震災から1週間後には安全確認の取れた施設に移っていきました。
しかし、特別養護老人ホームが老人保健施設の利用者を受け入れたという理由で行政からは指導を受けることとなりました。場所を貸しただけなので、直接介護を実施したわけではありませんが、その後、国から同じ種類の施設同士で避難者の受入れをするようにという文書が出ました。
養護老人ホーム長寿の森吉祥園の遠藤利則さんは「今回の避難にあたっては日ごろからの顔のつながりが活きた」と話します。沿岸地域から避難するにあたって、岩手県社会福祉協議会を通じて知り合っていた施設長同士が連絡を取り合って避難を実現させたところが多かったためです。遠藤さんは「あらかじめシミュレーションをして避難する際の体制を構築しておくことで、よりスムーズな避難ができる」と話します。また、長寿の郷は最新の耐震基準で造られており、建物に大きな被害がなかったことも避難者をスムーズに受け入れられた大きな要因でした。一方、職員の出勤については、遠くの市外から通っている職員もおり、何日か出勤できなかった職員も数名いました。
遠野がモノとヒトの拠点に
また、長寿の郷では、松原苑の利用者が出られた後、沿岸地域に物資を届ける際の中継地点として、一時的に物資を受け入れる拠点となりました。更に内陸の盛岡市では沿岸地域まで時間がかかりすぎるためです。宅配業者も沿岸地域への配送を行っていませんでしたが、遠野までは来ていたということもありました。
なお、物資を沿岸地域に送る作業は、長寿の郷で行ったわけではなく、沿岸地域の施設職員やそこに支援に入っていたボランティアがとりに来る形で行われました。
また、長寿の郷では、県外から支援に来た方の一時宿泊所にもなりました。遠野市の浄化センターに、遠野まごころネットが全国から来るボランティアの宿泊所を用意していましたが、そこだけでは足りず、特に日本認知症グループホーム協会などから協力してほしいという話があり、ボランティアの宿泊場所を提供することになりました。
https://t-chouju.jp/