福島県浪江町/平成30年3月現在
想いを形にすることで、高齢者と障害者が復興の最前線に
震災から半年を経つ頃から仮設住宅では、夕方から夜になると泣く高齢者が増えてきました。「自分の家に帰りたい」と。川村さんは、「目の前にいる人のお手伝いだけでなく、ダイナミックに大胆に仕事しよう」と思いました。「福祉に携わる者は、本人寄り添って仕事をしなければならない。だから、『帰りたい』という気持ちを『形』にしなければならない」と、心に決めました。
Jinでは、震災の翌年、仮設住宅のサポートセンターを続けながら、浪江町の隣の南相馬市に「南相馬サラダ農園」を開設し、浪江町へ帰る道を「形」にしました。この新しい取組みでは、必要となる人手を現地採用で確保しています。そして、さらに、次の年。国は、浪江町を「避難指示解除準備区域」「居住制限区域」「帰還困難区域」の3つに再編しました。沿岸部からJinの事業所のあった中心部の地域は「避難指示解除準備区域」となりました。沿岸部からは福島第一原発が目に見えて臨むことができる距離ですが、事故当時の風向きの影響で浪江町の沿岸部や中心部はむしろ放射線量が低い地域となっていました。
2年の歳月で荒れ果てたまち
震災から2年の月日を経た平成25年4月からは、浪江町の避難指示準備解除区域には、午前9時から午後4時の日中に立ち入ることができるようになりました。2年ぶりに立ち入れるようになったふるさとでした。けれでも、沿岸部には185名にのぼる行方不明者を出した津波被害の爪痕が手つかずにそのまま残り、中心街も地震の傷あとのままでした。そして、田畑にはセイタカアワダチソウやススキが生い茂り、イノシシなどの動物が町を荒らしていました。清水さんは、この頃の浪江町を「音もなければ、色もなかった」とふり返ります。その地をJinは、「帰りたい」と願う高齢者、避難先での暮らしになじめない障害者とともに日中の限られた時間に耕し、元の事業所に「浪江町サラダ農園」を再開しました。川村さんは「行動しないと、何も始まらない」と話します。
清水さんは「私自身は、避難した次の日から帰ることを決めていた。代表とは世代も異なるので、少しだけ違う想いかもしれない。私の場合は、浪江にこだわるというよりも、ここに事業所を作るまでにさんざんいろんなやりとりを重ね、簡単に作ったものじゃないから。建物も無事なのに、手放す気にはなれなかった。泥がついた土からは、放射能が出なかった。『帰れる』と思った」と話します。
浪江町サラダ農園